北部仏印進駐

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部 4章 日独伊三国同盟(5/5)消えたソ連との四国同盟。自ら自滅に導いたヒトラーのその決断

日本はなんのために戦ったのか

2.北部仏印進駐の余波

その1.北部仏印進駐とは?

日独伊三国同盟が締結される直前の 1940(昭和15年)年9月23日、日本軍は北部仏印への進駐を開始しました。ちなみに「進駐」とは「他の国の領土に自国の軍を配置する」という意味です。

ですから「北部仏印進駐」とは、フランスの領土であった仏印(フランス領インドシナ)に日本の軍隊が配置されたことを意味します。

仏印は現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域です。それらの地域にはそれぞれに王国が存在していましたが、1900年頃には仏印として統合され、フランスの植民地と化していました。

北部仏印進駐
国策転換 南進・仏印進駐への背景より引用

その仏印の北部に日本軍は進駐しました。現在のベトナム・ラオスの北側にあたります。

「侵攻」ではなく「進駐」と表記されることに注意してください。「侵攻」とは「ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して攻撃を仕掛け、その領土・勢力圏を侵す行為」を意味します。

しかし、北部仏印については日本とフランスの政府間の話し合いによって日本軍を配置することが決まったのであり、軍事的な攻撃を加えて無理やり入っていったわけではありません。そのため「侵攻」ではなく「進駐」なのです。

ところが、某教科書をはじめ仏印に「侵攻」したとの一文を見受けることがあります。これは正しくありません。たしかに、仏印進駐に際して日本とフランスの現地軍の間で小競り合いが生じた事実はあります。でも、だからと言って「侵攻」と記してしまえば事実がねじ曲げられてしまいます。

政府間の外交によって日本軍の配置は承認されていたのですから、あくまで「進駐」です。進駐と侵攻とでは歴史認識がまったく異なってきます。このあたりの言葉遣いには敏感でありたいものです。

東京裁判史観によると、第二次大戦における日本の侵略は北部仏印への進駐から始まったとされています。そこで、北部仏印進駐が果たして侵略と言えるのかどうかを検討してみましょう。

その2.援蒋ルートの実態

ー 4本の援蒋ルート ー

日本軍が北部仏印に進駐した理由は、仏印にある援蒋ルートを遮断するためです。しかし、それはあくまで表向きの看板に過ぎず、本当に意図していたのは南進のための軍事拠点を築くことでした。

ここでは援蒋ルートに焦点を当てます。首都南京が陥落した後、蒋介石政権は奥地の重慶に退いて抗日戦争を継続しました。中国の主要都市のほぼ全てを日本軍に占領され、中国全体の工業生産力の6%しか持たない蒋政権には、本来であれば戦争を継続できる国力など最早ありません。

しかし、現実には未だに抗日戦争は続けられていました。なぜなら、米英仏ソなどによる軍事経済援助が蒋政権を支えていたからです。それら列強による援助がなければ、蒋政権はとっくの昔に降伏していたはずです。

では、大量の武器や軍需物資はどうやって蒋政権に届けられたのでしょうか?

当時は中国の沿岸はすべて日本海軍が封鎖していました。そのため海を伝って物資を届けることはできません。援助は専ら仏印やビルマ、中国西北方から重慶へ通じる陸路を伝って行われました。この陸路のことを「援蒋ルート」と呼びます。

主要な援蒋ルートは4本ありました。仏印を経由する仏印ルート、ビルマを経由するビルマ・ルート、上海・香港を密輸で経由する中南支沿岸ルート、外蒙ウランパートルを経由する西北ルートの4本です。

援蒋ルート

セブ島留学マナビジン
クウェー川と、その鉄橋周辺を見て、泰緬鉄道について、考えてみました。より引用
これらの援蒋ルートを経て、英米仏ソからの援助物資が蒋政権に渡っていた

上の図は4本の援蒋ルートを表したものです。それぞれのルートからどれだけの援助物資が届けられたのかについては、記録に残されている1ヶ月分の補給量を見るだけでも推測できます。

鈴木敏明著「大東亜戦争はアメリカが悪い」(勉誠出版)には、日本軍の参謀本部が推定した 1940(昭和15)年6月頃の各援蒋ルートの月額補給量が紹介されています。

それによると、

1.仏印ルート 15,000トン
2.ビルマルート 10,000トン
3.中南支沿岸ルート 6,000トン
4.西北ルート 500トン

といった数値があげられています。かなり膨大ですが、これらはわずか一ヶ月当たりの量に過ぎません。これが毎月続けられていたわけですから、援蒋ルートがいかに蒋政権を支えていたのかが容易にわかります。

月額補給量を比較してもわかるように、4本の援蒋ルートのなかで最も重要なのが仏印ルートです。全援蒋物資のおよそ半分を仏印ルートが占めています。ソ連やアメリカからの援助物資も仏印ルートで運ばれていました。

仏印ルートにはハイフォンからハノイ、ラオカイを経て雲南省昆明に至る雲南鉄道と、ハイフォンからランソンを経て広西省・南寧に至る二つの路線がありました。日本軍は1939(昭和14)年の12月には広西省の南寧を占領していたため、実質的に残っていたのは雲南鉄道です。

援蒋ルートを通して列強によって援蒋行為が続けられている限り、日中戦争が解決する見込みはありません。日本からすれば、米英仏ソは援蒋行為によって中国の抗日戦意を煽り、日中戦争をいたずらに長引かせている元凶でした。

日中戦争を解決するために、日本が援蒋ルートの遮断を考えたのは当然と言えるでしょう。

ー 援蒋行為は中立違反なのか? ー

そもそも戦争を行っている片方の国にのみ武器や軍需品を大量に支援する米英仏ソの行為には問題があります。あからさまな援蒋行為が許されていたのは、日中戦争においては日本も中国も共に宣戦布告を行っていないからです。

今日では当時の日中間の武力衝突を「日中戦争」と呼んでいますが、当時は「支那事変」と呼んでいました。宣戦布告を行っていないため、「戦争」ではなく「事変」に過ぎなかったのです。

国際法で提議する戦争が起きた場合であれば、戦争に参加していない第三国が当事国に対して援助を行うことは基本的に許されません。援助を行った時点で中立国とは認められなくなります。

ところが「戦争」ではなく「事変」に過ぎなければ話は別です。事変であれば、第三国が中立を守る義務はありません。そのため、あからさまな援蒋行為が行われていても、日本としては国際法を盾に援助を中止するように迫ることはできなかったのです。

そうであれば今から宣戦布告すればよいではないか、といった疑問が浮かぶかもしれません。「これは戦争なのだ」と宣言をすれば、援蒋行為は止められるでしょう。

しかし、日本には宣戦布告ができない事情がありました。宣戦布告をしてしまうとアメリカが中立法を発動させることで、日本に向けて石油などの輸出を禁止することが目に見えていたからです。今、アメリカに石油を止められてしまえば、日本経済は立ちゆかなくなり、戦争どころではなくなります。

こうした背景があるため、米英仏ソの援蒋行為を止める手立てが日本にはありませんでした。

しかし、いくら宣戦布告が為されていないとはいえ、紛争が発生している最中に一方の当事国のみに武器や軍需品の支援を行う行為が中立国として直ちに許されるわけではありません。

東京裁判にてA級戦犯全員の無罪判決を下したインド代表のパール判事は、東京裁判でただ一人の国際法の専門家ですが、この問題について次のように述べています。

右記の日付(*1941〈昭和16〉年12月7日)の前の段階における日本と中国との間の戦闘行為は、明らかに戦争の特徴を持っていた。しかし困ったことには、敵対していた関係国自身がそれがそうであるとは決して宣言してはいなかったのであり、少なくともアメリカはその活動のためにそれが戦争であるとは認めない道を選んだのである。

一般に認識されているように、可能となるすべての援助をアメリカは中国に提供していたのであり、そのような援助提供はその国が中立であるとの特徴とは軌を一にはしないのである。

もし我々が、アメリカはかかる戦闘行為を戦争であると承認したのだと解釈するならば、国際法によればアメリカは自国の活動によりその交戦行為にすでに参加をしていたのであり、真珠湾攻撃に関する主張は絶対的に無意味となるのである。

その場合においては、真珠湾攻撃のはるか以前にアメリカは自国の活動により交戦国となっていたのであり、日本が中国に対して遂行していた戦争の性格がいかなるものであろうとも、アメリカが中国の側に味方してそれに参加することを選んだ瞬間に、日本はいつでもアメリカに対してあらゆる交戦措置を執る資格を持つに至ったのである。

東京裁判 全訳 パール判決書』ラダビノード・パール著, 都築陽太郎翻訳(幻冬舎)より引用(改行と*は筆者)

援蒋行為はそれ自体が敵対行為であり、その戦いに参戦しているも同然であるとパール判事は判じています。したがって真珠湾攻撃の際に、日本が宣戦布告をする義務がなかったと主張しました。

もちろんパール判事の言は国際法の専門家としてのひとつの主張に過ぎず、それが正しいかどうかはまた別の問題です。されど、国際法の見地から援蒋行為に問題があることはたしかであり、日本が援蒋行為を行っていた米英仏ソに対して抗議を行ったことには正当性があったと言えるでしょう。

セブ島留学マナビジン
wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
【 人物紹介 – ラダ・ビノード・パール 】 1886年 – 1967年
インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国(インド)が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

ー 米英仏ソはなぜ中国に肩入れしたのか ー

米英仏ソが中立を装いながらも、なぜ中国を一方的に支援したのかについては、これまでも再三紹介してきました。途中から読まれる方もいるでしょうから、ここで軽く整理しておきます。

米英仏ソが中国に加担した理由をひと言で表してしまえば、それぞれの国益のためです。国益の中身については各国で異なります。

英仏に関しては中国内に有する自国の権益を守るためです。さらに、それ以上に大きかったのは英仏がアジアにもつ植民地を日本に奪われることを恐れたためです。

フランスはフランス領インドシナ(仏印)を、イギリスはシンガポールを中心とする英領マレーとビルマを含む英領インド帝国を日本軍の侵攻から守る必要がありました。

蒋介石政権が倒れて中国に親日政権が樹立されるとなると、日本軍は中国内に自由に軍事拠点を設けられるようになります。そうなれば地図を見ても明らかなように、日本軍は英仏の植民地にいつでもすぐに攻め込める状況になります。英仏にとって、それは悪夢でした。

英仏の植民地を守るためには、蒋政権に頑張ってもらい、瀬戸際で日本軍を防ぐに越したことはありません。だからこそ英仏は、蒋政権への援助を惜しみませんでした。

アメリカが蒋政権を支援したのは、中国との商取引に期待するところが大きかったからです。アジアでの植民地競争に出遅れたアメリカは、他の列強のように中国内に権益を確保できませんでした。そこでアメリカは門戸開放を訴え、中国内に権益をもっていなくても自由な商取引によって対中貿易が促進されるように計りました。

そこへ起きたのが満州事変であり、その後に続く日中戦争でした。アメリカから見れば日中戦争は、門戸開放しかけていた中国へ日本が攻め込み、あたかも日本が権益を独り占めしようとしているように映りました。
▶関連リンク:5-11.アメリカの中国観~可哀想な中国を助けることは正義! – その3.結局は算盤勘定がすべて

日本はアメリカに対し、門戸が閉じたのは戦時中の一時的なことに過ぎず、日本が米中貿易を邪魔立てするようなことはないと説明しましたが、アメリカは信じませんでした。

中国の宣伝活動が功を為した面もあります。アメリカには中国が民主国家であり、日本に一方的に侵略されているとの世論が生まれました。実際には当時の中国は蒋介石を中心とするファシズム国家と呼んでもおかしくない状況でしたが、誤ったイメージがアメリカの世論を覆い、蒋政権を支えることがアメリカの正義とされたのです。
▶ 関連リンク:5-11.アメリカの中国観~可哀想な中国を助けることは正義!

現実とは大きく異なるイメージの前に、台頭する共産党の危険性は無視されました。

最後にソ連ですが、世界の共産化を目指すソ連にとっては、国境を接する満州にいる日本軍は邪魔な存在でした。ソ連はその国家成立のときから拡張(侵略)主義を旨としています。いずれは日本との戦争が起きる可能性が高いため、日中戦争が泥沼化することで日本軍の力が疲弊することはソ連の望むところでした。

日本軍が日中戦争に兵を向けている限りは、満州から自国に侵攻される心配をしなくても済みます。

また、中国共産党の支援のためにも、蒋政権を支える必要がありました。蒋政権軍と日本軍が戦って疲弊している間に、中国共産党軍の拡大を狙ったのです。その目論見は大東亜戦争で日本が敗れたあとに実を結びます。日中戦争の長期化を狙い、ソ連は蒋政権を支えました。

このように蒋政権を守ることが、米英仏ソの国益にかなっていました。日本が日中戦争で戦っていた相手は、中国ばかりではなかったのです。

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