レキシジン 第2部「フィリピン レイテ島の戦い」 3章「レイテ陸上戦」 #117 レイテ地上戦の一筋の希望、カンギポットに集結せよ!

#117 レイテ地上戦の一筋の希望、カンギポットに集結せよ!

第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

第3章.レイテ陸上戦4.一筋の希望、カンギポットに集結せよ!

レイテ決戦の劣勢を挽回するために、陸軍が持てる力のすべてを注いで敢行した「ブラウエン飛行場奪還作戦」について前回紹介しました。

高千穂空挺隊の活躍と地上軍の連携によりブラウエン北飛行場を制圧した日本軍ですが、米軍の救援部隊が続々と駆け付け、戦況は次第に不利に傾くばかりです。それでも空港まであと10キロと迫った第26師団が到着さえすれば戦局を逆転できるはずと信じ、高千穂空挺隊は最期まであきらめることなく戦い抜きました。

その結果、一人残らず戦死を遂げています。日本陸軍が誇る精強部隊であっただけに、「空の神兵」の名に恥じない壮絶な最期でした。

高千穂空挺隊の隊員たちが待ち望んだ第26師団は、すぐ近くまで来ていたにもかかわらず、戦場には姿を現しませんでした。

なぜなら飛行場に急いでいた第26師団のもとに、軍より新たな命令が発令されたからです。それは「和号作戦中止、オルモック防衛のため転進」せよとの下令でした。

いったい、何が起きていたのでしょうか?

1.米軍、オルモック上陸の衝撃

その1.星条旗が打ち砕いた希望

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オルモック上陸部隊を乗せた米上陸用舟艇
フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

12月7日、漆黒の夜が明けオルモック湾が次第に明るくなるにつれ、沿岸を警備していた日本兵たちは思わず歓喜の声を上げました。オルモック湾に近づく80隻の艦艇が見えたからです。

ついに連合艦隊が助けに来てくれた、もう大丈夫だと、兵たちはこれまでの苦しかった日々を思い返しては感涙にむせびました。

兵士たちはレイテ沖海戦にて連合艦隊が惨敗を喫したことを知りません。レイテに上陸した米軍を取り囲むように連合艦隊が海洋を封鎖しているものと信じ切っていました。

まもなく米艦隊を壊滅させ、連合艦隊が助けに来てくれるに違いないと、希望をつないでいたのです。

しかし、海面がすっかり明るくなり、80隻の艦艇が掲げる旗を視認できるようになると、先ほどまでの歓喜は、たちまち絶望へと塗り替えられました。彼らが目にしたのは日の丸ではなく、星条旗だったからです。

兵たちが「まさか」という思いに捉われ、我が目を疑ったのは当然と言えるでしょう。

何の備えもないなか、日本軍にとって補給の要の地であるオルモック湾に米艦隊が大軍をもって押し寄せることなど、けしてあってはならないことでした。

絶対に起きてはならないことが起きてしまったことの衝撃は、日本軍を打ちのめしました。

米軍のオルモック上陸は日本軍の予期していないことであり、完全に不意を突かれる結果となったのです。

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12月7日のレイテ島における態勢図
捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

第14方面軍は7日の朝、米軍がオルモックへの上陸を開始するまで、米軍の動きにまったく気が付いていませんでした。

されど、各地で死闘が繰り広げられているレイテ近くの海上を80隻もの大船団が移動しながら、その動きにまったく気づかなかったとは考えにくいことです。

実は高千穂空挺隊を乗せた爆撃機隊がブラウエン方面に向かう際、スリガオ海峡を航行する米船団を発見し報告しています。この報告に基づき、陸軍に属する第4航空軍の富永司令官は「疾風」8機を出撃させ、米船団の爆撃に向かわせました。戦果は不明とされていますが、第4航空軍が米船団の移動を知っていたことは間違いありません。

ところが富永司令官は、このことを方面軍に報告しませんでした。その理由として、すでに和合作戦が進行中である以上、地上部隊に余計なことを知らせることで攻撃の矛先が鈍ることを嫌ったため、あるいは船団の行き先がオルモックだとは気が付かなかったためと言われています。

理由はともあれ 80隻の米船団が移動している以上、米軍が何らかの新たな作戦を実施しようとしていることは明らかなだけに、その意図を計りかねたとしても方面軍への報告を怠ったことは、不可思議なことと言わざるを得ません。

その2.上陸を阻めない絶妙のタイミング

もっとも、米船団がオルモックへの上陸を目指していると事前にわかったところで上陸を阻止できたのかと言えば、答えはノーです。

当時、第35軍司令部はブラウエン方面での作戦の指揮をとるためにオルモックを離れており、米軍の上陸を阻むだけの兵力をオルモックに用意することはできない状況でした。

第16師団はすでに崩壊し、第1師団はリモン峠で米軍と対峙して動けず、第26師団はブラウエンに向かって脊梁山脈を横断している最中です。当時、オルモックに残っていたのは船舶工兵と高射砲部隊を中心とする守備隊のみです。オルモックからイピルまでの長い海岸線を、わずかな兵で守れるはずがありません。

日本軍にしてもレイテ決戦の生命線ともいえるオルモックに守備兵が残っていない状況を、黙って見過ごしていたわけではありません。ブラウエンに地上部隊の総力を結集する以上、オルモックの守備が手薄になることはわかりきっています。そこで実は11月7日に新手の部隊として独立混成第68旅団6,300人が、オルモックに上陸する予定になっていたのです。

「旅団」とはいえ第68旅団は兵の鍛錬度からしても、装備からしても、当時日本一とも噂されていた精鋭揃いの部隊です。もし、第68旅団が米軍より先にオルモックに上陸を果たしていたならば、米船団による上陸阻止に動いたことは間違いありません。そうなれば、オルモック上陸に米軍はかなり苦労したことでしょう。

しかし、一足違いで米船団の方が早くオルモック港に到達していました。第68旅団を乗せた輸送船は米船団に埋められたオルモック港に近づくことができず、輸送船団護衛司令官の判断に基づき11月9日、北西岸のはずれにあるサン・イシドロに上陸を果たしています。

オルモックから60キロも離れた地点への上陸となったため、第68旅団がオルモック防衛戦に参加することはできませんでした。

【 第六十八旅団の進路推定 (12月7日-28日) 】
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第68師団はレイテ上陸後、米軍との決戦の場を与えられることなく崩壊した。戦わずして壊滅した第68師団は、レイテに投入された師団のうち、もっとも悲運だったと言えるかもしれない。
レイテ戦記(三)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

米軍の上陸は、陸軍がブラウエン方面での新たな作戦のためにオルモックから主力部隊を動かしたあと、オルモックを守るために派遣された第68旅団が到着する前の、わずか一瞬の隙を見事に突くものでした。

これを戦国時代にたとえたならば、敵国に奪われた自国領土の要衝(ようしょう)を奪い返すために遠征したところ、守備が手薄になっていた本国の城を突かれ、敵軍にいきなり囲まれたも同然です。

三国志に出てくる諸葛孔明を思わせるような、あまりにも見事な奇襲に、いったい誰がこのような巧妙な作戦を立てたのか、敵ながらあっぱれという思いを方面軍や第35軍の幕僚たちは抱きました。

ブラウエン飛行場奪還作戦のために戦線が伸びきった間隙を突かれ、一切の補給の揚陸地点であったオルモックを獲られては、レイテで戦っている全軍の補給が完全に断たれ、戦わずして崩壊に至ることは目に見えています。

事は重大でした。もはや飛行場の占領どころではありません。和合作戦の中止を軍は直ちに決定しました。ブラウエン飛行場奪還作戦の任務を忠実に実行している高千穂空挺隊を見殺しにすることになると十分にわかっていながらも、第35軍司令部と第26師団に急いでオルモックに引き返し、米上陸軍と戦うように指示が下されたのは止むを得ないことでした。

その3.「偶然」がもたらした致命的な一撃

では、この神業ともいえる米軍のオルモック上陸は、誰が企てた作戦だったのでしょうか?

戦後に公開された米軍の資料によって、すべてが明らかにされています。結論から言えば、すべては偶然の産物でした。

米軍は日本軍によるブラウエン飛行場奪還作戦の情報を事前に掴んでいたものの、このような大規模な作戦を行う力など、もはや日本軍には残されていないと判断し、本気にしていませんでした。

つまり米軍は 11月7日の時点でオルモックを守る日本兵がほとんどいないことも、第68旅団がまもなく到着する予定になっていることも、なにひとつ知らなかったのです。米軍が上陸の決行日とした11月7日という日付は、なんらかの戦略に裏付けされて決められたわけではありません。たまたま、その日、日本軍のオルモックの守備がもっとも手薄だっただけのことでした。

上陸を妨害する日本軍がいないことに最も驚いたのは米軍でした。米軍にとっては願ってもない幸運だったといえるでしょう。逆に、たまたま守備が手薄になっていたところを突かれた日本軍にとっては不運としか言いようがありません。レイテにおいて「偶然」という名の運命の女神は、米軍に微笑んだのです。

そして、この偶然は、レイテ決戦に事実上の終止符を打ちました。米軍がオルモック上陸に割いたのは2個連隊のみ、わずか1万300名の兵です。

わずか1万ほどの米兵によってオルモックという補給基地を攻略されたことにより、日本軍は致命的な一撃を受けることになりました。

この時点でレイテ島には25万を超える米軍がひしめいています。それを4万5000ほどの兵で押し止め、かろうじて均衡を保っていた日本軍ですが、補給の拠点を失ったことにより、一気に壊滅へと突き進むことになったのです。

2.オルモックを防衛せよ!

その1.繰り返された特攻攻撃

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オルモック防衛戦の全体図
捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

オルモックの米上陸軍は地上戦において日本軍の抵抗を受けることもなく、たやすく上陸を果たしました。

ただし、海上は別です。第4航空軍は米船団に対して、果敢に攻撃しました。この頃の日本軍の航空攻撃は、ほぼひとつに限定されています。神風特攻隊です。

第4航空軍の第一波は重爆「呑龍(一〇〇式重爆撃機)」と護衛戦闘機「隼(一式戦闘機)」からなる特攻隊でした。もともと特攻隊として編成されたわけではないものの、オルモックが危機に瀕していることを知り、自ら特攻を買って出た隊でした。

魚雷と特攻を組み合わせた斬新な攻撃により、第一波は米駆逐艦2隻を撃沈する戦果を上げています。この攻撃をアメリカの歴史家モリソンは「1944年中に行われた最も異様で破滅的な攻撃の一つであった」と書き残しています。

レイテ決戦では陸海軍とも多くの若者が特攻攻撃を志願し、壮絶な最期を遂げていることを、後世に生きる私たちは忘れるべきではないでしょう。

その2.オルモック地上戦での健闘

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オルモックの道路上で米軍戦車に撃破された日本軍の95式軽戦車。
フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

上陸した米軍からオルモックを守るべく、数少ない地上軍も反撃を開始しました。日本軍にとって幸運だったことは第26師団今堀支隊がリモン峠へ進出するために、12月7日にはオルモックから8キロほどの距離にあるドロレスに来ていたことです。

今堀支隊のリモン峠進出は取り消され、急きょ守備隊と合流してオルモック防衛にあたることになりました。

さらにブラウエンにて第二次降下の任に当たるはずだった高千穂空挺隊も予定を変更し、オルモックの北方10キロの距離にあるパレンシア飛行場に降下し、直ちに今堀支隊の指揮下に入り、オルモック防衛戦に参戦しています。

それらすべてを合わせても、オルモックを防衛する日本兵は1,500程度に過ぎません。

ところが、これより12月15日までの8日間にわたり、オルモック防衛隊は米軍と激しい死闘を展開しました。その間、無血上陸を果たした米77師団の死傷者数は2226に達しています。この数は、リモン峠で日本軍と対峙した米24師団の死傷者数2342に匹敵しています。およそ1ヶ月に及ぶリモン峠の戦いと、わずかな日数に過ぎないオルモックの戦いでの死傷者数が同じであることは、オルモックでの戦いが、いかに壮絶であったかを物語っています。

わずかな兵力にもかかわらず米軍に多大な損害を与えることができたのは、オルモックが補給地であり、砲門や弾薬などが豊富に集積されていたからです。

先にも記しましたが、日本軍はトラックが欠乏していたため、せっかく物資を揚陸できても、それを前線まで運ぶ術をもちませんでした。物資はオルモックに積まれたまま、豊富に残されていたのです。

オルモック防衛戦では、その恩恵を活かし、日本軍は十分な火力と弾薬を思う存分使うことができました。

その結果、火力に阻まれ、米軍の進撃は遅々として進みませんでした。火力の凄まじさに米軍は日本軍の大規模な部隊を相手に戦っていると錯覚し、慎重に行動せざるを得なかったためです。しかし、実際に戦っているのはほとんどの場合、数百程度の少数の日本兵に過ぎなかったのです。

このことは十分な火力と装備さえあれば、たとえ少数の兵であっても、日本軍は米軍と互角以上に渡り合えたことを示しています。レイテ決戦において日本軍が敗れたのは、兵力・火力・装備・制空権・制海権において、いずれも米軍に圧倒されていたからであり、けして日本軍が弱かったからではない、ということです。

オルモックをめぐる戦いで最大の激戦となったのは、大石大隊250名が立て籠もったコンクリートハウスでの攻防戦です。全滅に至るまでの戦闘の詳細については、【レイテ島慰霊の旅3/3】レイテに降る涙雨。人は生まれる時代を選ぶことは出来ない。にまとめてあります。

米軍に砲撃されたままの姿を留め、今も残されているコンクリートハウスは、オルモック防衛のために戦い散っていった日本兵にとっての、まさに墓標です。

日本兵は善戦を続けたものの、兵力の差はいかんともしがたく、12月15日、ついに米軍によってオルモック港は完全に封鎖されました。

その3.未だあきらめず! 「決号作戦」発令!

それでもまだ、大本営の定めたレイテ決戦は揺らがず、方面軍はレイテの危急を救うべく、「決号作戦」を12月17日の0時35分に実施することを決めています。「決号作戦」とは米軍の目をオルモックに引きつけている間にカリガラ湾に2個大隊を敵前上陸させ、一気に戦局の打開を図ろうとする思い切った作戦です。

「決号作戦」のために満州から第10師団と第23師団が送られる予定でした。

【和号、決号作戦関係図 】
レイテ陸上戦(4/4)の5
敗勢に陥りながらも、なおも日本軍は「決号作戦」によって戦局の逆転を企画した。
レイテ戦記(二)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

しかし、12月13日、アメリカの大規模な輸送船団がレイテ湾を出港し、14日にネグロス島の西方海上を北上していることを知った方面軍は、あわてて「決号作戦」の中止を各隊に下令します。

この米輸送船団が直接ルソン島を目指すのではないかと危惧されたためです。そうなれば方面軍としてはルソン島防衛に全力を尽くすよりなく、もはやレイテにかまっている場合ではありません。

こうして「決号作戦」は幻に終わりました。「決号作戦」が中止されたことは、カリガラ湾に上陸するはずだった日本兵にとっては幸運でした。もし、「決号作戦」が実施されていたならば、彼らのほとんどは生きて帰ることができなかったことでしょう。

25万を超す米軍に対し、2個大隊を投入したところで、戦局の打開など思いもよらないことは間違いありません。大軍を擁する米軍に対し、兵力を少しずつ投入することは、兵法の基本において、やってはならないとされる愚行です。レイテ決戦において陸軍は、こうした兵力の逐次投入を繰り返し、多くの人命を失う結果を招きました。

【 レイテ島日米両軍の兵力投入図 】
レイテ陸上戦(4/4)の4
大部隊を投入する米軍に対し、日本は少数の兵力を逐次投入することで犠牲者を増やしていった。
レイテ戦記(二)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

もっともレイテ決戦を行う上で、一度に何十万もの兵を送れるはずもないだけに、兵力の逐次投入となることはやむを得ないことです。

そうであれば、方面軍の山下将軍が予め危惧したように、レイテ決戦自体が愚行であったことを否定できません。机上の空論に走った大本営の責任は、極めて大きいといえます。

14日の朝より、陸海軍は持てる航空戦力の総力をあげてネグロス島近くを航行する米輸送船団に襲いかかりました。米軍の記録によると日本軍の特攻機は延べ189機を数えたとされます。

しかし、その多くは米輸送船団を発見できず、不発に終わっています。記録によると、この日、米輸送船団の受けた損害は皆無でした。

結局、米輸送船団が15日に上陸したのはミンドロ島の南端に位置するサンホセでした。ルソン島でなかったことに、方面軍はホッと胸を撫で下ろしたことでしょう。

マッカーサーの狙いはミンドロ島を占領し、その平野部に航空基地を建設することでした。航空基地の建設にしても、米軍と日本軍とでは大きな違いがあります。日本軍は人力に頼った手作業でこつこつと作業したのに対し、米軍は大型機械を駆使して一気に作業しました。

日本軍は数ヶ月かけて航空基地を建設しましたが、米軍はわずか数日で完了しています。ミンドロ島には新たに3つの飛行場が造られましたが、建設開始から5日後には早くも航空機が配備されています。

これらの航空機はルソン島を襲撃するとともに、マニラとレイテを行き来する日本の輸送船をたやすく撃沈できました。

そのことは、マニラからレイテ島までの補給線が完全に断ち切られたことを意味しています。オルモック港が封鎖されたことでレイテ島での補給地が失われたことと合わせ、もはやレイテに取り残された日本兵に食糧や弾薬・医療品などを届けることは、物理的に不可能になったのです。

3.レイテ決戦の打ち切り

レイテ決戦に終止符を打つ日は、刻々と近づいていました。その動きを決定的にしたのは 14日、大本営にて為された重大な人事異動の発令です。陸軍省軍務局長の任にあった佐藤賢了少将が更迭され、新たに参謀本部第一部長の真田穣一郎少将が任命されました。

レイテ陸上戦(4/4)の3
wikipedia:佐藤賢了 より引用
【 人物紹介 – 佐藤賢了(さとう けんりょう) 】
1895(明治28)年 – 1975(昭和50)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍省軍務局員のとき国家総動員法案を審議中の衆議院委員会にて「だまれ」と議員を一喝し問題となった。戦後のインタビューで「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ)。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語った。南支那方面軍参謀副長として北部仏印進駐を進めた後に軍務局長となり、東条の側近として知られた。戦後は最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役。釈放後は東急管財社長を務め、ベトナム戦争反対運動に参加した。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争は聖戦だったと主張していた。

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真田穣一郎:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 真田穣一郎(さなだ じょういちろう) 】
1897年(明治30) – 1957(昭和32)年
昭和初期の陸軍軍人。最終階級は少将。陸相秘書官・軍務局軍務課長などを経て、参謀本部作戦課長となり、ガダルカナル島からの撤退を決定。のち参謀本部第一部長としてレイテ決戦を指導。軍務局長を歴任後、第2総軍参謀副長として終戦を迎える。

この人事で重要なのは前内閣東条と親しかった佐藤少将が更迭されたことではなく、参謀本部第一部長のポストが空いたことです。

参謀本部第一部長こそが、大本営の作戦指導を担っていました。つまり、参謀本部第一部長が代わるということは、レイテ決戦という大本営の作戦指導そのものが変更されることを意味していたのです。

新たに参謀本部第一部長に就任したのは、宮崎周一中将です。この人事の背景については不明ですが、12月に入った頃より大本営内においても、レイテ決戦が無理に無理を重ねることで収拾のつかない苦境に陥っていることを憂慮する声があったとされます。

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宮崎周一:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 宮崎周一(みやざき しゅういち) 】
1895(明治28)年 – 1969(昭和44)年
昭和初期の陸軍軍人。最終階級は中将。第11軍作戦参謀として日中戦争に出征。開戦後、第17軍参謀長としてガダルカナルの戦いを指導。最後は玉砕を主張するも、百武晴吉第17軍司令官の命により撤退した。第6方面軍参謀長として漢口に赴任後、帝国陸軍最後の参謀本部第1部長に就任。すぐさま戦線視察に発ち、マニラにて捷一号作戦失敗を確認すると本土決戦準備に入る事を決意する。本土決戦を優先し、沖縄戦へ充当される予定であった姫路第84師団の派遣を船舶輸送の不安定を理由に独断で中止したことで戦後、「沖縄の現地軍を見捨てた」と批判される。戦後、アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式に日本側全権代表団として参加。

当初よりレイテ決戦に難色を示していた方面軍の声が、ようやく大本営に届いたといえるでしょう。

レイテ決戦の行き詰まりを認めた大本営は、人事を通してレイテ決戦の幕引きを決断しました。

そのことは同時に、未だレイテ島にて孤独な戦いを続けている日本軍の将兵を見捨てることを意味しています。これ以上の犠牲を防ぐために、軍は涙を呑んでレイテ島の日本兵に背を向けたのです。

19日、大本営は南方総軍と第14方面軍から意見具申されていたレイテ地上決戦方針中止を認めると返電しました。これが事実上のレイテ決戦放棄です。

この決定に基づき、第16師団を除く全軍に西海岸への転進命令が下りました。第16師団のみ転進命令が下されなかったのは、転進に伴う米軍の追撃に対して、これを防ぐ任務を課されたからです。

しかし、すでに第16師団は崩壊しており部隊としては機能していない状況でした。転進命令が下ったことは第16師団の残存兵にも伝わり、個別に西海岸へと移動しています。

ちなみに、この場合の「転進」は「撤退」をごまかすための方便です。皇軍である日本兵に「撤退」は許されません。「転進」という言葉を使うことで、「撤退」の代わりとしたのです。

4.カンギポット山に託した最期の希望

レイテ陸上戦(4/4)の11
晴れてさえいれば、カンギポット山は遠くからでも、よく見えた。

西海岸において、日本軍の集結地点とされたのがカンギポット山です。標高300メートルのカンギポット山は周辺が低山ばかりのため、遠くからでもよく見通せました。

35軍司令官の鈴木中将はカンギポット山に漢字をあてがい「歓喜峰」と呼びました。日本兵にとって「歓喜峰」は、まさに希望の宿る山でした。

各地の敗残兵は米軍による追撃、及び飢えと病と闘いながら、ひたすらカンギポット山を目指して歩を進めました。

日本軍のなかでもっとも整然と転進してみせたのは第1師団です。第1師団はリモン峠から21日に転進を開始しましたが、1万3500人いた兵は2500人にまで減っていました。それでも軍としての機能を失うことなく、カンギポット山まで行軍しています。

【 第1師団のリモン戦線の撤退(12月13 日~21 日) 】
レイテ陸上戦(4/4)の9
第1師団は隊としての秩序を守り、米軍に気づかれることなく整然とリモン峠からの撤退に成功した。
レイテ戦記(三)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

悲惨を極めたのは第16師団や26師団です。これらの師団の敗残兵はオルモック街道を米軍に遮断されたため、およそ2ヶ月にわたって脊梁山脈内に閉じ込められ、彷徨(さまよ)うことになりました。

山中は至るところに白骨化した日本兵の死体があり、それを道標として密林の中を多くの日本兵が食糧を求めてあてもなくさまよったとされます。

雨と霧に閉ざされた脊梁山脈にあるのは、勇ましい武勇伝ではありません。生と死をかけた彷徨(ほうこう)の間に数え切れないほどの悲劇が横たわっています。

関連リンク:【レイテ島慰霊の旅1/3】カンギポットを往く。密林に眠る数え切れないほどの悲劇の物語

飢えと病に苛まれながら密林に閉ざされた道なき道を歩む日本兵にとって、遠くに見えるカンギポット山は最後の希望でした。あそこまで行けば友軍が待っている、地獄のようなレイテを脱出してセブに逃れられるかもしれない、と希望を託し、ひたすらカンギポット山を目指したのです。

5.下された永久抗戦の命令

【 レイテ島西部の戦況(12月21日-31日) 】
レイテ陸上戦(4/4)の16
日本の敗残兵はひたすらカンギポット山を目指し、移動した。
レイテ戦記(三)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

12月中旬より、日本兵は次第にカンギポット山周辺に集結しつつありました。12月25日、第35軍に対し方面軍から次の命令が下りました。

一、第三十五軍司令官は比島中南部において自戦自活のもとに永久に抗戦を継続し、国軍将来における反攻の支とう(支柱)たるべし。
一、特に『バコロド』『カガヤン』『ダバオ』各航空基地群の確保に努め、敵の使用を妨害すべし

一つ目は、有名な「自戦自活永久抗戦」の命令です。要するに今後は一切の補給もできなければ、連絡もできなくなる、それでも永久に抵抗を継続せよ、との命令です。

レイテに残っている日本兵にとっては、あまりにも過酷な命令ですが、物理的に一切の補給ができなくなった以上、方面軍としてはやむを得ない処置でした。

二つ目は、ネグロス島とミンダナオ島にある陸軍飛行基地を守れとの命令です。35軍が受けもっているのはレイテ島ばかりではなくビサヤ諸島全体です。レイテ決戦には敗れたものの、セブ島やミンダナオ島をはじめとするビサヤ諸島を防衛する任務が、第35軍には残っていました。bukann

つまり、この命令はレイテに残っている日本兵を脱出させ、ビサヤ諸島の防衛に当たらせよ、と言っていることになります。

この命令に従い、カンギポットに集まった日本兵をレイテ島から脱出させるための「地号作戦」が翌年の1月より開始されました。

レイテ脱出第1陣として選ばれたのは第1師団の兵です。しかし、輸送に使われる大発(大型発動機艇の略)の手持ちは少なく、1月20日に第4次輸送が行われる間にも9隻の大発が撃沈され、1月27日にはすべての大発が全滅するに至ります。

結局、レイテを無事に脱出できたのは第1師団の800人の兵だけでした。残された日本兵はレイテを脱出したくても船がなく、カンギポット山周辺にて自戦自活を続けるよりなかったのです。

それでも日本兵にとって救いだったのは、西海岸では農産物の収穫期が12月だったことです。どの農家にも農産物があふれかえっていたため、飢えに悩まされていた日本兵は久しぶりに腹を満たすことができました。

カンギポット山周辺には、およそ2万の日本兵が集ったとされています。

米軍にとってもレイテ島を制圧したことは最早たしかであり、日本のわずかな敗残兵はあえて全力で押し潰すまでもなく、周囲を包囲して徐々に自滅へと追い詰めていけば十分でした。

12月25日、聖なる救世主の誕生日の朝、マッカーサーはラジオを通して厳かに宣言します。「レイテ島上の戦闘は終わった」と……。

2万の日本兵が残っていようとも、アメリカにとってレイテの戦いはすでに終結したのです。

6.山下将軍の寄せる万感の思い

12月31日、セブ経由にて山下将軍からの電報が第35軍司令長官の鈴木中将のもとに届きました。そこにはレイテで戦った将兵に対する山下将軍の万感の思いが、込められています。

原文のカナをひらがなに直したうえで、掲載します。

尚武参電第五九九号警急機密親展、十九年十二月二十五日発。三十一日受付。
第三十五軍司令官に与うる訓示

米ど『レイテ』島に潜行してより既に六旬、此の間第三十五軍軍司令官は強烈なる統
帥の下に優勢なる敵に対し万難を克服して善戦敢闘、敵に甚大なる損害を与えて、兵力
の寡少、装備の劣弱、補給の杜絶(とぜつ=とだえること)にも拘らず、軍司令官自ら陣頭に立ちて果断克く戦機を捕捉、高千穂部隊と協同し、『プラウエン』航空基地を攻略せるは、本職深く感激せる所なり、今や物量に頼る敵は第三十五軍並に海空部隊の決死敢闘にも拘らず、量溢(あぶ)れて『ルソン』に迫らんとせり、即ち本職情勢の急転に処し、仇敵を『ルソン』に於(おい)て屠(ほふ)り、以て謹みて軍の健闘に応え、鋒鏑(ほうてき=武器)に倒れたる幾多義烈なる忠霊に対し報ゆる所あらん事を期す、軍需の補給意に任せず『レイテ』島幾万の将兵に対し万斛(ばんこく=計りきれないほど多い分量)の涙あるのみ。(二字欠)更に至難なる新任務を課す、本職の心境を賢察せよ、夫(そ)れ死は易く生は難し、将兵良く隠忍持久、生の難きに耐えかちて永久抗戦、以て悠久皇運を扶翼(ふよく=助け守ること)し奉り、共に従容(しょうよう=落ち着いた、ゆとりのある様子)として皇国の人柱たれ、右訓示す
昭和十九年十二月二十五日
                            第十四方面軍司令官山下奉文

前半部で35軍配下の日本軍の健闘を称え、ことにブラウエン飛行場奪還作戦での戦いぶりに感動したと記しています。また、補給を果たせなかったことを深く侘びつつも、新たな任務として自戦自活永久抗戦を命じています。

「死は易く生は難し」の言葉には、たやすく死を選ぶのではなく、苦しくとも生き続けて徹底抗戦を継続することこそが、祖国を救うことになるのだとの思いが込められています。抗戦によって米軍による日本本土への上陸を少しでも遅らせることができれば、それだけ本土決戦の備えが充実するからです。

山下大将が諭した「死は易く生は難し」の言葉は、ルソン決戦は当然として、硫黄島や沖縄の戦いにおいても、日本軍の司令官が部下に対して繰り返し用いています。

レイテ決戦に反対し続けた山下将軍ですが、上官の命令は絶対の軍隊内において抗命が許されるはずもなく、やむなくレイテの死地へと数多の将兵を送るよりありませんでした。多くの将兵を見殺しにせざるを得なかった苦しい胸の内は、長い電文からも伝わってきます。

山下将軍の見せた厚情は、レイテで死んでいった日本兵にとって幾分かの慰めとなったことでしょう。

7.終戦以降、カンギポットに生存者なし

レイテ陸上戦(4/4)の15
レイテ諸隊の最期図
捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

年が明けた1月1日、「レイテこそ天王山の戦い」と鼓舞していた小磯首相は、放送にて日本国民に対し「レイテ島が天王山なのではなく、フィリピン全体が天王山である」と訂正しました。

レイテ決戦に敗れたとは口にできないための苦しい言い訳ですが、レイテでの戦いが思わしくないことは多くの国民の知るところとなりました。翌3日、「レイテ島必ずしも有利なら
ず」と新聞が初めて実状を告げる記事を掲載しています。

カンギポット山周辺に孤立した日本軍は米軍と戦いながらも畑を耕し、栄養失調に陥りながらも命を繋ぐだけの食糧はかろうじて確保できる状況でした。

米軍は1月の下旬からの10日間と二月の下旬から三月の上旬にかけての15日間の2回にわたりカンギポットを攻撃しましたが、日本軍の全滅を期すような大がかりなものではなく、陸上封鎖を強め、日本軍の食糧調達区域の縮小を計る限定的な攻撃に留めています。あえて積極的な攻撃を加えなくても、日本軍が飢えと病でやがては全滅に至ることが明らかだったためです。

このように周囲を敵軍に囲まれ、もはや援軍の望みも消え失せ勝算がまったく立たないとき、世界各国の軍隊がとる行動は決まっています。それは、降伏です。

人と人とが殺し合う戦場はあたかも無法地帯そのもののように映りますが、文明国同士の戦争は一定のルールに則って行われています。

戦うだけ戦った上で負けたと決まった以上は降伏し、捕虜となるのが、世界各国の軍隊に共通する約束事でした。正規の手続きを踏んで捕虜となった者を殺害したり虐待することは、国際法によって禁じられています。

ところが日本軍だけは例外です。捕虜についての国際協定が存在すること自体を、日本兵は知らされていませんでした。そればかりか日本軍は捕虜となることを禁じていました。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が、これです。

世界でただ一カ国、日本の軍隊だけは捕虜となることが許されませんでした。そのため、日本軍にはけして「降伏」はありえません。

降伏より他に道がないのであれば、敵軍に突撃して全滅して果てることが日本軍に課せられた義務でした。

カンギポットの日本軍も、この戦陣訓をかたくなに守り通しました。その結果として、カンギポット山から生きて日本の土を踏めた将兵は、ごくわずかに留まっています。その大半は飢えや病、あるいは負傷したことで自決する力もなく横たわっているところを米軍に救助され、本人の意志にかかわらず捕虜となった将兵でした。

レイテ陸上戦(4/4)の14
捕虜となった少年のような日本兵。自殺を図ったため、やむなく後ろ手に縛ったと説明されている。日本兵にとって捕虜となることは恥辱だった。
フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

終戦後、ようやく投降する日本兵が各地の戦場にて見られました。しかし、カンギポットの日本軍だけは例外です。

カンギポットの周辺では終戦後も、投降する日本兵が一人もいなかったと米軍の記録に綴られています。終戦を待つことなく、カンギポットの日本兵は全員、散華して果てたのです。

かくして日本はレイテの戦いにおいて、総計 79,261名の戦死者を出すに至りました。レイテ決戦に参戦した日本の将兵の実に94%以上が、レイテの土に還ったのです。

それが、日本が国運を賭けて挑んだ決戦における悲劇的な結末でした。

【 日本軍のレイテ島投入兵力と戦没者 】
レイテ陸上戦(4/4)の13
レイテ戦記(四)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

レイテ島は米軍の占領するところとなったものの、それでもフィリピンの戦いは、まだ終わったわけではありません。

レイテ決戦にて戦力を使い果たした日本軍には、まもなくルソン島に上陸するであろう米軍を跳ね返すだけの力は、もう残っていません。レイテにておびただしい将兵を失ったことにより、方面軍がかねてから企図していたルソン決戦は、最早実行不可能に陥っていたのです。

ルソンでの戦いの方針は、本土を守るために米軍を一日でも長く釘付けにする持久戦へと移っていました。

これよりルソン島において、日本軍と米軍は再び死闘を繰り返すことになります。

ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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