レキシジン 第2部「フィリピン レイテ島の戦い」 3章「レイテ陸上戦」 #114ここが天王山!フィリピンの戦いはレイテ地上戦へ「マレーの虎」山下大将来たる

#114ここが天王山!フィリピンの戦いはレイテ地上戦へ「マレーの虎」山下大将来たる

第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

第3章.レイテ陸上戦1.ここが天王山 レイテ決戦へ

フィリピンの戦いにて最大の激戦地となったレイテ島において、日本軍は惨敗を喫しました。レイテの戦いに投入された84,006名の将兵のうち、実に79,261名が戦死を遂げています。

生存率わずか5%に過ぎないレイテは、日本軍にとってまさに地獄の戦場でした。

なぜ日本軍はレイテ島で、これほどおびただしい数の犠牲者を出さなければならなかったのでしょうか?

沈痛な思いを抜きに語ることのできないレイテ陸上戦を振り返ってみます。

1.「比島航空要塞化」がもたらしたもの

フィリピンが日本本土を防衛するための要の地であることは、これまで幾度か紹介してきたとおりです。問題は絶対国防圏として、フィリピンをいかに米軍の攻撃から守るかにありました。

その方針が決したのは、5月2日の御前会議においてです。「比島航空要塞化」あるいは「十一号作戦」と呼ばれる作戦が、それです。

具体的には陸軍の地上兵力を動員することで飛行場をフィリピン諸島各地に建設し、海軍と協力しながら基地航空機を中心に、米機動部隊をパラオ方面において撃滅するという作戦です。

ミッドウェイ海戦に敗れて空母は失ったものの、航空機の被害はさほどでもなく、第一航空艦隊にはまだ600機が温存されていました。フィリピンに多くの飛行場を設け、これらの航空機を有効に活用することで、フィリピン諸島全体をあたかも不沈空母のように要塞化することを大本営は決したのです。

後から振り返ったとき、大本営が比島航空要塞化へと舵を切ったことこそが、レイテ島にて8万近い日本の将兵が散華する悲劇の始まりだったといえます。

その1.第16師団によるレイテ進出

フィリピンは開戦以来、南方の戦線へ向けて兵員や資材を輸送するための中継基地としての役割を果たしてきました。前線からは遠く離れているため、後方の安全基地と見なされてきたのです。

そのため、フィリピンが敵の攻撃に直接さらされるような事態は想定されておらず、飛行場も沿岸防御施設も、ほとんど整備されていない状況でした。

当時、レイテ島の守備を担ったのは、1944(昭和19)年4月より配属された第16師団です。牧野四郎中将を師団長とする第16師団は通称「垣兵団」と呼ばれ、京都の9連隊、福知山の20連隊、津の33連隊の歩兵3個連隊を主力とする師団です。

レイテに進出した第16師団は、このあとのレイテの戦いにおいて、ほぼ全滅という悲惨な末路をたどることになります。米軍上陸時から矢面に立たされた第16師団は、極めて不運な師団であったといえるでしょう。

では、なぜ第16師団にレイテ進出の命が下ったのかと言えば、答えは自明です。当時、フィリピンにいた日本軍のなかで、正規編成の師団は第16師団だけだったからです。

「師団」や「連隊」は部隊の単位を表しています。500人から5000人規模の部隊を「連隊」、2000人から5000人規模の部隊を「旅団」と呼びます。「師団」は、これらの連隊もしくは旅団2~4個から編成された1万人から2万人規模の部隊のことです。

当時のフィリピンには、ルソン島に第16師団がいるほかは、ルソン島北部・ビサヤ地区・ミンダナオ島の要地に旅団が分散して配されている程度でした。

つまり首都マニラのあるルソン島を守っていたのは、第16師団を中心とする少数の兵のみだったことになります。

フィリピンがどれだけ安全な後方基地であったとしても、重要な国防圏であることに変わりありません。それほど重要な拠点の守備が手薄であったことに、当時の日本軍のおかれた窮状が表れています。

その2.日本陸軍が陥っていた兵力不足

日中戦争が泥沼化するなか、大国アメリカとの戦争に踏み込んでいった無理は、日本軍を確実に蝕んでいました。

将兵の配置が歪であったことは、終戦時の日本軍の各国ごとの兵数を見れば一目瞭然です。終戦時の日本陸軍の総兵数は 296万3300人ですが、もっとも多くの兵がいたのは中国で、およそ105万人です。

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旧厚生省援護局調べ。1945年8月15日時点の兵数

次に多いのは満州の66万人です。つまり、中国大陸に171万の兵が張り付いていたことになります。その比率は日本陸軍全体の、およそ6割に達します。

中国軍自体はそれほどの脅威ではなかったものの、ソ連がいつ南下してくるかわからない状況であったため、ソ連軍に対する備えとして大軍を中国と満州に配置しておく必要があったためです。

さらに朝鮮に29万人、台湾に13万人弱、千島・樺太に9万人弱の兵がいました。それ以外の兵員がフィリピンや仏領インドシナ、マレーシアなどの南方戦線に投入されていたことになります。

結局のところ、太平洋をまたぐ広大な南方戦線に送ることのできた陸軍兵は、日本陸軍全体の25%ほどに留まっています。

アメリカを中心とする連合国と南方を舞台に戦争をしているにもかかわらず、日本軍には総兵数の25%しか割く余裕がなかったのです。

米軍の反撃によって南方の島々を次々に失っていった背景には、兵数不足が大きな影を落としています。

深刻な兵数不足に陥っていた日本軍は、フィリピンに十分な兵を割く余裕がありませんでした。第16師団がレイテに進出するとなれば、ルソン島を守る部隊がいなくなるという有り様です。

そこで33連隊だけはマニラ周辺に残し、第16連隊のほとんどはレイテへと進出することになりました。

その3.レイテの戦略的価値とは

フィリピンのなかでも最も重要な拠点が、首都マニラを擁するルソン島であることは間違いありません。ルソン島をがら空きにしてまでレイテの防衛を優先した理由は、レイテの戦略的価値が極めて大きかったからです。

もし、レイテが米軍の手に落ちるとなれば、その地に飛行場を作ることで、米軍の航空機が自由にルソン島を爆撃できるようになります。そうなってはルソン島の防衛は、事実上もはや不可能です。

そこでレイテを守るために第16師団を移動させ、比島航空要塞化の方針に則り「飛行場設定援助」の任務に当てることが決したのです。

通常、飛行場の建設を行うのは工兵部隊です。しかし、工兵だけでは間に合わないため、歩兵も砲兵も含め、あらゆる兵科をあげて飛行場の設営に当たることが下令されました。これが「飛行場設定援助」の意味です。

かくして急ごしらえの飛行場設営が、急ピッチで進められました。その反面、米軍上陸に備えた沿岸防御陣地の設営は全く進まず、兵の練度を上げることもおざなりにされました。

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タクロバンとバレンシアが海軍飛行場、その他が陸軍飛行場。当初、7個予定されていた陸軍飛行場は後に4個に改められた。
捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

大本営の描いたシナリオによれば、レイテの各飛行場から飛び立った航空機が海上の米機動艦隊を撃滅するため、そもそも米軍の大部隊がレイテ島に上陸することなど想定されていません。ゆえにレイテで陸上軍同士が激突する可能性は低いと考えられていました。

だからこそ、沿岸防御陣地を設営するよりも、兵の練度を上げることよりも、飛行場の設営が何よりも優先されたのです。

この大本営の方針を痛烈に批判したのが、第14方面軍司令官の黒田重徳中将です。第14方面軍はフィリピン諸島全体の防衛を担っていました。第16師団もまた、第14方面軍の指揮下にあります。

「レイテ沖海戦」の冒頭にも紹介しましたが、黒田は地上部隊の主任務は地上戦闘にあるとし、飛行場の設営ばかりにかかりきになるのではなく、地上決戦に備えて防塞の用意と戦闘訓練を行うべきだと主張し、大本営が推し進める「比島航空要塞化」に異を唱えました。そのことは大本営の怒りを買いました。

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黒田重徳:JapaneseClass.jp より引用
【 人物紹介 – 黒田重徳(くろだ しげのり) 】1887(明治20)年 – 1954(昭和29)年
明治~昭和初期の軍人。最終階級は陸軍中将。歩兵第57連隊大隊長・歩兵第59連隊長・第26師団長を歴任。シンガポール陥落の後、南方軍(総軍)の総参謀長・幕僚長を経て第14軍司令官となる。フィリピン独立の準備を進め、有力者の協力のもとフィリピンの憲法をつくり、ホセ・ラウレルを大統領にするとともに日本による軍政を撤廃、1943年10月14日のフィリピン独立に貢献した。第14方面軍司令官に昇格するも、航空決戦に傾倒する大本営を公然と批判したことで罷免され、予備役となる。戦後はA級戦犯として逮捕された後、フィリピン共和国に連行され、司令官時代のフィリピンにおける部下の残虐行為の罪を問われ、B級戦犯としてマニラ軍事裁判で終身刑の判決を受けた。後にキリノ大統領の恩赦を受け、帰国を果たす。

その4.飛行場の設営が残した悪影響

現地をよく知る黒田中将と大本営の見識とを比べてみれば、黒田中将の方がはるかに卓越していたことは、その後の歴史が証明しています。

つまるところ、飛行場の設営は米軍上陸時になんの役にも立ちませんでした。

昭和18年末から飛行場の設営が開始され、第16師団に「飛行場設定援助」が下令されたことにより、ドラグやブラウエンなどに新たに4つの飛行場が誕生しました。戦前からあったタクロバンの飛行場と併せて、全部で5つの飛行場がレイテに設営されたことになります。

しかし、あまりに急ごしらえであったため、米軍上陸時には充分な整備がなされていない状況でした。さらに最悪だったのは、台湾沖航空戦での大惨敗や米軍の空爆により日本の航空機は次々と失われたため、そもそも飛行場に配備できるだけの航空機がないことでした。

飛ばせる航空機がないのだから、飛行場をいくら設営したところで無意味です。

実際には「無意味」を通り越して、飛行場の設営は日本軍に災禍をもたらしました。飛行場を設営したことにより、今度は飛行場を守るために多くの兵を割く必要に迫られたからです。

ただでさえ多勢に無勢の日本軍にとって、各飛行場を守るために兵を分散せざるをえなかったことは、輪をかけて不利な戦いを強いることになりました。

米軍としては少数に分散した日本軍を各個撃破していけばよいだけに、ほとんど被害を出すことなく進軍できたのです。

米軍上陸後、日本兵が苦労して設営した飛行場のことごとくは米軍に占領され、そこから発進した米機が日本軍に襲いかかりました。

黒田中将は「飛行場は敵のために造ってやるようなものだ」と警鐘を鳴らしていましたが、その言葉はあたかも予言のごとく的中することになったのです。

ちなみに第16師団に任された飛行場の設営にしても、けして簡単な作業ではありません。海と違って陸には、大勢のフィリピン人ゲリラが潜伏していたからです。

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米軍と行動を共にする、まだ少年の面影を残しているフィリピン人ゲリラ兵
フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

戦時下の日本軍によるフィリピン統治は、現地の人々にとって過酷なものでした。食糧を現地調達に頼っていた日本軍は、貧しいフィリピン人から食糧を奪い取るよりなく、そのことで多くのフィリピン人の怨嗟の対象になっていました。

そのため、フィリピン人の若者はゲリラとなり、抗日活動を続けていたのです。

【 レイテ島における10月上旬のフィリピン人ゲリラの状況 】
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米軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラがレイテ島各地で様々な妨害工作を行っていた。
レイテ戦記(一)』大岡昇平著(中央公論新社)より引用

米軍の指導を受けたフィリピン人ゲリラは、飛行場の設営を邪魔しようと、さまざまな妨害工作に打って出ました。そのため第16師団が飛行場を設営するためには、フィリピン人ゲリラ部隊を討伐する必要がありました。

第16師団は米軍上陸後、わずか 10日で壊滅したため、レイテ戦史上の評価は芳しくありません。しかし、すでに米軍上陸前からゲリラ部隊との死闘を繰り返し、命がけで飛行場を設営した功績は、もっと評価されてもよいように思えます。

惜しむらくは苦労して建設した飛行場が役に立たなかったことですが、それは第16師団の責に帰すべきことではありません。

2.押しつけられた「レイテ決戦」

その1.「マレーの虎」山下大将、来たる

大本営に煙たがられていた黒田中将は、9月26日付けで更迭され、新たに第14方面軍司令長官として赴任したのが山下奉文大将です。

開戦後まもなく、難攻不落の呼び声高かったシンガポール要塞を陥落させた山下は、「マレーの虎」と称される名将です。

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山下奉文:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 山下奉文(やました ともゆき) 】1885(明治18)年 – 1946(昭和21)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。北支那方面軍参謀長・航空総監を歴任後、第25軍司令官として難攻不落と言われていたシンガポールを攻略し、陥落させた。イギリス軍司令官 A.パーシバルに「イエスか、ノーか」と無条件降伏を迫った逸話は有名。その功により「マレーの虎」の異名をもつ。東条首相との仲が悪く、中枢から遠ざけられ満州の第1方面軍司令官に任ぜられる。レイテの戦い直前に第14方面軍司令官に転じ、米軍上陸阻止作戦を指揮した。あくまでルソン島での決戦を主張するも退けられ、レイテでの決戦を余儀なくされる。ルソン島に戦いの場が移ると、民間人の被害を抑えるためにマニラをオープンシティにしようと尽力するも海軍と大本営の反対を受け適わなかった。バギオに籠もり、不利な兵力ながら持ちこたえ、終戦まで米軍を苦しめる。戦後は戦犯としてマニラにて軍事裁判にかけられ、死刑判決を受けた後、ロスバニョス刑務所にて絞首刑に処せられた。享年62。

勇名とどろく山下大将が司令長官としてフィリピンに下ったことは、現地の士気を大いに高めました。

しかし、山下がマニラの地を踏んだ10月8日は、米軍上陸のおよそ二週間前にあたります。米軍上陸直前の着任は、遅きに失しました。わずか二週間で部下を掌握するには無理があり、フィリピンの地理に精通できるはずもありません。

しかも、フィリピンの守備を任されていながらも、実際には指揮系統において様々な制限が付されており、極めて窮屈な状況でした。

第14方面軍は東南アジア(南方)方面陸軍部隊を統轄する南方軍の指揮下にありますが、当時、シンガポールにあった南方軍司令部はマニラに移転していました。フィリピン防衛戦こそは日米の戦いにおける天王山だと見定め、総軍の指揮をとるために拠点を移したのです。

このため第14方面軍司令長官という肩書きはありながらも、実際には南方軍総司令官の寺内寿一元帥の許可をとらなければ、山下単独では何も為し得ないような有り様でした。

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wikipedia:寺内寿一 より引用
【 人物紹介 – 寺内寿一(てらうち ひさいち) 】1879(明治12)年 – 1946(昭和21)年
明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は元帥陸軍大将。台湾軍司令官などを務め、二・二六事件後の広田内閣で陸相に就任。浜田国松議員との「腹切り問答」により政党と正面衝突、内閣総辞職の原因をつくった。その後、教育総監・北支那方面軍司令官などを歴任し、大戦中は南方軍総司令官となり、南方作戦全体を指揮した。評判はあまり芳しくなく、太平洋戦争末期の南方軍総司令官在任時、サイゴンの旧フランス総督官邸から前線に移動しなかったばかりか、愛人の赤坂芸者を軍属にして軍用機で日本からサイゴンに乗せて、現地で豪遊したとされる。1944年連合軍のレイテ上陸に対してレイテ戦回避を求める山下奉文の意見具申を大本営の命令に従い却下した。降伏直後、シンガポール抑留中に病死。68歳。

陸軍の航空部隊である第4航空軍も、輸送を司る第3船舶部隊も寺内元帥の指揮下にあり、山下が自由に動かすことはできませんでした。フィリピン政府との交渉権も与えられていないため、治安維持についての口出しもできない状況です。

山下は「マレーの虎」と呼ばれているだけに、勇猛果敢な猛将としてのイメージを抱きがちですが、実際の山下は戦略や戦術に長けた知将であったと言われています。

その山下がフィリピンでは両手両足を縛られたような状態で指揮をとらざるを得なかったことは、不運なことでした。山下が自由に動かせたのは、ルソン島にいる12万の兵だけだったのです。

その2.突然の作戦変更

山下に下された任務は、米軍がルソン島に上陸してきた際には陸軍をもって決戦できるように準備することでした。

日本軍にとって国防上最も重要なルソン島を守るために、フィリピンにある日本陸軍の総力を結集して事に当たることを山下は想定していました。米軍のルソン島上陸が迫った際には、ルソン島以外の諸島に分散する日本軍を呼び寄せ、一大決戦を挑む覚悟でいたのです。

ところが10月20日、米軍がレイテ島への上陸を開始したことを受け、大本営の定めたルソン決戦の方針は大きく変化することになります。

10月22日、寺内元帥から以下のような「作戦変更」の命令が山下に下されました。

一、驕敵(きょうてき=おごる敵)撃滅の神機到来せり。
二、第十四方面軍は空・海軍と協力し、なるべく多くの兵力をもって、レイテ島に来寇せる敵を撃滅すべし。

ルソン決戦のはずが、いつのまにかレイテ決戦へと置き替えられたことになるだけに、山下ら第14方面軍の幕僚たちが一様に驚きを隠せなかったのも無理はありません。

このような突然の作戦変更が為された原因は、台湾沖航空戦での過大な戦果報告にあります。

日本海軍の発表した戦果報告によれば、ハルゼー率いる米機動艦隊は壊滅したことになります。陸軍は、この報告を真に受けました。

そこで、機動艦隊が壊滅したにもかかわらずレイテ島に押し寄せて来たのは、米軍の戦略ミスであるとし、この際、レイテ島にできるだけ多くの戦力を投入することで米軍を徹底的に叩くべきだ、との判断が働いたのです。

その3.レイテ決戦は実行不可能なり

第14方面軍では、昨日着任したばかりの武藤章参謀長をはじめとする幕僚が集まり、レイテ決戦についての会議がもたれました。会議はレイテ決戦に否定的な意見で埋め尽くされました。

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wikipedia:武藤章 より引用
【 人物紹介 – 武藤章(むとう あきら) 】1892(明治25)年 – 1948(昭和23)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東条らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。

大本営の見解との根本的な相違は、台湾沖航空戦の戦果報告に対する温度差です。東京の大本営は海軍発表の戦果報告を素直に信じましたが、フィリピン現地軍は違います。

台湾沖航空戦の後もフィリピン各地に米機による空襲が繰り返されており、しかも次第に激しさを増している現実を、現地軍は身をもって体験しているからです。

連日のように続く猛烈な空爆を見れば、海上から艦載機が飛んできていることは子供にもわかります。そのことは、米機動艦隊が健在であることを十分に証明していました。となれば、台湾沖航空戦での海軍の戦果報告が真実でないことは明らかです。米軍が日本側の予想をはるかに上回る大勢力でレイテに押し寄せていると、山下らは考えました。

また、レイテ決戦となると当然ながらレイテに兵や武器弾薬・食糧・資材を送る必要があります。そのためには十数万トンの船を用意しなければなりません。今から船を見つけるだけでも困難ですが、マニラからレイテまで東京から岡山ほどの距離を、敵機と敵潜水艦がうようよしているなか制空権も制海権もない状態で渡るなど、無謀もいいところです。

さらに最大の問題は、レイテ決戦に作戦変更となることで、ルソン島で最後の一大決戦をするという従来からの構想が崩れてしまうことでした。レイテ決戦で戦力を消耗すれば、もはやルソンでの決戦さえできなくなる恐れがあります。

こうした様々な情報を検討した上で、山下らはレイテ決戦は実行不可能との結論を出したのです。

その4.命じられた「レイテ決戦」

翌23日、山下らは寺内元帥に翻意を促すべく説得に努めました。

しかし、寺内は大本営の方針に完全に同調しており、第14方面軍の見解を認めようとはしません。台湾沖航空戦の戦果に対する判断にしても、天皇によってご嘉賞の勅語が下った以上は否定すべきではないと、耳を貸しませんでした。

連日、米機の空襲に喘ぐフィリピンにいながらも、寺内の見解は現地軍とはかけ離れていたようです。

しばし議論が続いた後、寺内はテーブルを拳で叩くと声を荒げました。

「もういい! やれという命令が出たらやるんだ!」

命令が下された以上は、それがどれだけ理不尽であったとしても従う義務が軍人にはあります。これは日本軍ばかりでなく、世界中どこでも軍隊である以上は、破ることのできない鉄則です。戦場にて上官の命令に従わずに個々に行動していたのでは、いかなる戦闘も成り立たないからです。

上官の命令に従わない場合は「抗命」とみなされ、軍法会議にかけられるなど重い処罰が待っていました。

つまるところ寺内が厳命したことにより、レイテ決戦へと舵を切ることが決定したのです。その結果、当時、レイテにいた第16師団2万人に加えて、さらに6万人、総計およそ8万人の兵の命がレイテ島で失われる悲劇を招きました。

山下はレイテ決戦の愚を十分に知覚していながらも、軍隊内の絶対的な秩序のなかにあって内心忸怩(じくじ)たる思いを抱えながら、レイテ決戦へ向けて兵を送り込むよりありませんでした。

その5.マッカーサーを生け捕りにした後の心配

ルソン決戦からレイテ決戦へと突然の作戦変更を受け、山下はセブに新設された第35軍の軍司令官である鈴木宗作中将に「今次の決戦は日米戦争における天王山である。第35軍は可及的に多くの兵力をレイテ島に移動して決戦に赴くべし」と下令しました。

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鈴木宗作:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 鈴木宗作(すずき そうさく) 】1891(明治24)年 – 1945(昭和20)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。関東軍参謀などを歴任、開戦後は第25軍参謀長として山下奉文大将の指揮の下、マレー作戦に参加、シンガポール陥落を成し遂げる。昭和19年より第35軍司令長官としてレイテ決戦の指揮をとった。米上陸軍との戦いに敗れ、カンギポットに敗残兵を集結させた後、第14方面軍山下大将にミンダナオ島への転出を命じられるも、責任感から長くカンギポットに留まり日本兵を鼓舞し続けた。命令に従いレイテ島を脱出後、ミンダナオ島へ渡る途上、米機に襲撃され戦死を遂げる。

鈴木中将は、この命令に歓喜します。それ以前の35軍には、「所要兵力を率いてルソン決戦に参加できるように準備せよ」との命令が下されていました。この場合の35軍は、単なる援軍の一つでしかありません。

ところが突然、レイテ決戦の主役へと躍り出たのです。日米両軍の雌雄を決するであろう大きな戦いの指揮を任されて、喜ばない軍人などいるはずもありません。兵にとっても同様です。レイテにて米軍を破る栄誉に浴せることを、35軍の将兵は素直に喜びました。

レイテ決戦が極めて過酷な戦いになるだろうことは、鈴木中将には伏せられました。戦う前から士気を下げることを恐れたためです。

そのため、鈴木中将の認識は大本営と大差ないものでした。台湾沖航空戦でハルゼー米機動艦隊が壊滅した以上、レイテに上陸した米軍は多くても3個師団程度に過ぎないと楽観していました。

その程度の米軍であれば、第16師団を中心とする35軍だけでも全滅に追い込めると考えていたのです。まして日本陸軍きっての精鋭部隊として知られる第1師団や第26師団までもが続々とレイテに到着するとあっては、よもや負けるはずがないと信じ切っていました。

このとき、鈴木中将と幕僚たちが真剣に議論していたのは、マッカーサーを生け捕りにした後のことです。彼らにとって米上陸軍を壊滅させ、マッカッサーを生け捕りにすることは、もはや揺るぎようのない既定事実でした。

レイテ陸上戦(1/4)の2
wikipedia:ダグラス・マッカーサー より引用
【 人物紹介 – ダグラス・マッカーサー 】1880年 – 1964年
アメリカの軍人。最終階級は陸軍元帥。第一次大戦に参加し活躍。帰国後はウェストポイント校長、陸軍参謀総長などを歴任。いずれも最年少記録を塗り替えた。その後、フィリピン国民軍を創設。一度は退官するも1941年7月にルーズベルトの要請を受け、現役に復帰。在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。圧倒的に優位な軍事力を擁していたにもかかわらず、開戦後まもなく日本軍の侵攻に敗退を重ねる。人種差別的発想の持ち主であったことから日本人を見下し、油断したことが敗因とされる。自軍機が日本軍機に撃墜されても「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告し、適確な対策を怠ったとされる。コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領のケソンを脱出させる際、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求し、フィリピンの国庫より50万ドルを受け取る。自らもフィリピンを脱出することになり、その際 “I shall return.” (私は必ず帰る) の言葉を残した。1944年の反攻作戦によりフィリピン奪還。戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の民主化を進め、国際法に違反して新憲法をもたらす。統治中は昭和天皇を東京裁判の訴追から外すことに尽力したこと、及びマスコミの好意的な報道により日本人からの人気は高かった。その後、大統領選への出馬を表明するも本選にてトルーマンに敗れる。朝鮮戦争勃発時に国連軍総司令官となるが、トルーマン大統領の政策に反対し、解任される。帰国のため車で東京国際空港に向かった際には、沿道に見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。 退任にあたり「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べたことは有名。

問題はマッカーサーを捕虜にしたあと、マッカーサーが局地的な降伏を申し出るだろうから、それを受け入れるのか、それとも強く全面降伏を求めるのか、両者のどちらがよいのかでした。

かなりの大言壮語のように見受けられますが、かつてシンガポールを陥落させた際、英将パーシバルの降伏調印の席に、鈴木は山下と並んで列席していただけに、当時の記憶が離れなかったのでしょう。

その際、山下が「イエスかノーか」と毅然と言い放ち、パーシバルに強く全面降伏を求めた逸話は、あまりにも有名です。

レイテ陸上戦(1/4)の1
アーサー・パーシバル:wikipedia より引用
【 人物紹介 – アーサー・パーシバル 】
1887年 – 1966年
イギリスの軍人。最終階級は陸軍中将。当時の軍人には珍しく、軍人養成学校の出身ではなく、一兵卒から叩き上げて将軍になった。開戦後はマラヤ司令部司令官として北部マレーの防衛戦に当たるも、山下将軍率いる日本軍にシンガポールを陥落されたことにより、約8万の兵と共に投降した。マレー半島で投降した5万人と合わせ、英国史上最大規模の降伏として騒がれる。その後、捕虜として台湾や満州に抑留。終戦後、東京湾上における戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式に出席した後に退役。本国にて余生を静かに暮らした。

鈴木中将がレイテにおいて、今度は自分が全軍を動かして米上陸軍を撃破し、捕虜となったマッカーサーを相手に「イエスかノーか」と迫る場面を想像したとしても、無理からぬことといえるでしょう。

レイテに上陸した米軍が20万を越えることを知っている私たちから見れば、それが滑稽なほどに悲しい勘違いだとわかりますが、当時、それほどの大軍がレイテに押し寄せていると知っている日本人など一人もいません。

20万の大部隊だとわかったのは、戦後になってからのことです。リアルタイムに経過する時間のなかでは、米上陸軍の規模は知りようもないことでした。

まして米上陸軍と真正面からぶつかっているはずの第16師団からは無線連絡が途絶えていたため、現地の状況はまったくといってよいほど掴めていませんでした。

どのような戦いが行われているのか把握できないまま、レイテ決戦の方針に従い、レイテに向けて次々と将兵が送り込まれていったのです。

彼らの大半は帰還を果たすことなく、レイテの土へと還りました。

寺内元帥は例外としても、現地をよく知る山下大将ら現地軍の意向を無視して大本営がレイテ決戦を押しつけたことは、取り返しの付かない悲劇を招くことになりました。

次回より、レイテの戦いがどのような経過をたどったのかを追いかけてみます。

ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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