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    レキシジン 第2部「史上最大の海戦」 2章「レイテ沖海戦」 第2部2章レイテ沖海戦(5/10)悲劇の特攻艦隊 輸送船団を殲滅して死ねというのか!?

    第2部2章レイテ沖海戦(5/10)悲劇の特攻艦隊 輸送船団を殲滅して死ねというのか!?

    第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

    第2章.レイテ沖海戦

    5.悲劇の特攻艦隊

    その1.最後の連合艦隊としての誇りと不満

    - 最期をいかに飾るべきか -

    栗田艦隊の小柳冨次参謀長と大谷藤之助通信参謀が捷号作戦の内容についてはじめて説明を受けたのは、8月10日のことでした。

    小柳冨次
    :wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 小柳冨次(こやなぎ とみじ) 】1893(明治26)年 – 1978(昭和53)年
    明治-昭和時代の軍人。最終階級は海軍中将。第8駆逐隊司令・水雷学校教頭・「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガダルカナル島のヘンダーソン基地艦砲射撃などに参戦。第2水雷戦隊司令官、第10戦隊司令官を経て、第2艦隊参謀長としてレイテ沖海戦を戦った。レイテ沖海戦については自著を含め、多くの陳述を残している。レイテ沖海戦で重症を負ったため、連合艦隊司令部付となり、横須賀鎮守府付、水雷学校長などを歴任後、予備役に編入された。

    大谷藤之助:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 大谷藤之助(おおたに とうのすけ) 】1906(明治39)年 – 1989(平成元)年
    昭和時代の軍人・政治家。最終階級は海軍中佐。第二艦隊の通信参謀としてレイテ沖海戦に参戦。栗田艦隊の謎の反転の原因となった「ヤキ一カ」電の捏造に加担したとの指摘も為されているが真相は不明。戦後は政界に転じ、自民党の参議院議員として4回の当選を果たした。予算委員長、ロッキード問題調査特別委員長などを歴任。靖国神社事務総長、日本遺族会顧問を務めた。

    連合艦隊司令部の神重徳参謀から米輸送船団殲滅を求められた小柳参謀らは、予期したこともない任務に愕然とします。

    神重徳
    神重徳:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 神重徳(かみ しげのり) 】1900(明治33)年 – 1945(昭和20)年
    大正-昭和初期の軍人。最終階級は海軍少将。日独伊三国軍事同盟賛成派の急先鋒として知られる。海戦後はパナマ運河爆破を立案するも却下される。第8艦隊先任参謀として第1次ソロモン海戦を指導、撤退作戦を成功させる。続いてニューギニアへの強行輸送作戦である81号作戦を立案、多くの反対を押し切り「全滅覚悟でやってもらいたい」と作戦を強行し、船団の壊滅を招き、「ダンピールの悲劇」と呼ばれる大損害を喫した。その後、キスカ島撤退作戦に巡洋艦「多摩」艦長として参戦。教育局第1課長のとき東条首相暗殺計画に関与したが未遂に終わる。サイパンの戦いでは戦艦山城による特攻作戦を立案するが却下される。その後も戦艦を主力とする突入作戦を積極的に主唱し、捷一号作戦を立案。レイテ沖海戦に臨むも惨敗を喫した。捷一号作戦そのものが机上の空論と誹られたが、強い精神力があれば成功していたと自説を曲げなかった。連合艦隊首席参謀として戦艦大和の沖縄特攻を強硬に進言、実現させたことで悪名を残した。なにかと強気で狂信的な言動が目立たったため「神さん神がかり」と揶揄され、「海軍の辻政信」ともささやかれた。帝国海軍きっての奇人の一人とされている。終戦直後の飛行機事故により津軽海峡に不時着水後、同乗者はアメリカ軍の駆逐艦に救助されたが、神だけ行方不明となった。米軍による救助にあえて背を向けたとする説もあり。

    連合艦隊では創立以来、艦隊決戦こそを第一義と考えてきました。敵の主力艦隊と堂々と戦い、これを撃破することこそが海軍軍人の本義であると、徹底的に叩き込まれてきたのです。

    ところが敵の主力艦隊ではなく、輸送船団を殲滅せよと命じられたのでは驚くのも無理はありません。小柳参謀長にすれば、その命令は軍人の誇りを踏みにじるものでした。

    以前の記事でもふれましたが、日本海軍は潜水艦の運用にしても米軍の戦闘艦艇ばかりを狙い、米輸送船への攻撃はほとんど行っていません。対して米軍は潜水艦を使い、日本の海上交通の破壊を徹底的に行いました。

    石油などの南洋資源を日本内地へ運ぶ商船の多くは米潜水艦の魚雷を受け、撃沈されています。このため日本は南方で確保した石油を内地へ思うように運ぶことができず、国力を著しく落とすことになりました。日本海軍に海上護衛の観念が欠けていたことが被害を大きくした要因の一つです。

    大東亜戦争が国家総力戦である以上、海上交通を狙うという米軍の戦略は理に適うものだったといえます。

    ところが日本では戦闘能力の高い潜水艦は空母や戦艦など、もっぱら戦闘能力をもった艦艇を標的とするべきとし、民間の商船隊を狙うなど卑怯千万とする空気が支配していました。

    まして第一級の水上部隊となれば敵の主力艦隊を叩くのが本義であり、「輸送船団の殲滅を期すなど外道の作戦以外のなにものでもない」と考えるのが普通でした。

    当時の日本海軍の士官のほとんどは、艦隊決戦至上主義こそを信条としていました。日露戦争での日本海海戦のような艦隊決戦にて雌雄を決すべきとの思いを捨てきれなかったのです。

    さらに小柳参謀を絶望の淵に落としたのは、連合艦隊司令部が栗田艦隊に輸送船団を殲滅して死ねと、暗にほのめかしているも同然だったことです。

    先にも説明したように敵の支配下にある港湾に突入するからには、生還の望みはまずありません。レイテ湾が栗田艦隊の死に場所になることは確実です。

    しかもそれは、単に栗田艦隊というひとつの部隊の消滅を意味しているわけではありません。主力艦隊である栗田艦隊が滅びるということは、栄光ある連合艦隊そのものの終焉を意味していました。

    明治以来、連合艦隊は数々の苦難を乗り越え、世界に冠たる大艦隊を築きました。日清戦争では清の艦隊を破り、日露戦争では世界最強の呼び声が高かったバルチック艦隊を全滅させ、真珠湾攻撃では世界ではじめて機動攻撃を成功させるなど、その名声を世界に轟かせてきました。

    栄えある連合艦隊ですが、武運拙く、航空機も艦艇も残すところわずかとなった今、終焉のときを迎えていることは、海軍士官の多くが感じていることでした。

    滅びることはやむを得ないとしても、最後は華々しく米主力艦隊と戦って果てたいとの思いを、彼らはもっていました。

    - 敵主力部隊の撃滅か、輸送船団の壊滅か -

    小柳参謀にしても、最後の一戦に望みを託したい思いは同様です。

    父祖たちが明治・大正・昭和の三代にわたり、国民の期待を一身に受けながら心血を注いで作り上げた世界一の巨艦・巨砲を擁する連合艦隊最後の主力艦隊であればこそ、名誉ある死所を彼らは求めたのです。

    敵主力艦隊と決戦になり、そこで差し違えて倒れるなら本望ですが、戦闘能力が無いに等しい輸送船団を殲滅して死ねと言われても、納得できるものではありません。

    後に小柳参謀は、著書にてその際の神参謀との会話について、次のように綴っています。

    この連合艦隊の作戦計画は、われわれの予想とは著しく違った意外なものであった。しかし、いったん発令された連合艦隊の作戦計画をかれこれ批判することはゆるされないので、「この計画は、敵主力の撃滅を放擲して、敵輸送船団を作戦目標とするものである。われわれは飽くまで敵主力の撃滅をもって第一目標となすべきものと考えている。敵の港湾に突入してまで輸送船団を撃滅しろというのなら、それもやりましょう。いったい、連合艦隊司令部はこの突入作戦で水上部隊を潰してしまってもかまわぬ決心か」

    神参謀は、
    「比島を取られてしまえば、南方は遮断され、日本は干上がる。そうなっては艦隊を保存しておっても、宝の持ち腐れである。どうあっても比島を手離すわけにはゆかない。したがって、この一戦に連合艦隊をすり潰しても、あえて悔いはない」

    そこで私は、
    「連合艦隊長官が、それだけの決心をしておられるなら、よくわかった。ただし、突入作戦は簡単にできるものではない。敵艦隊は、その全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は御命令通り輸送船団を目指して敵港湾に突進するが、途中、敵主力部隊と対立し、二者いずれを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、さしつかえないか」

    神参謀はこれを了承したので、「これは大事な点であるから、よく長官に申し上げておいてくれ」と念を押しておいた。

    栗田艦隊―レイテ沖海戦秘録』小柳冨次著(光人社)より引用

    ここで神参謀は、「この一戦に連合艦隊をすり潰しても、あえて悔いはない」と明言しています。

    そこには軍令部や連合艦隊司令部の「一撃爾後講和主義」がはっきりと表れています。直接言葉にはしないものの、「この戦争を終わらせるために死んでくれ」と言っているも同然です。

    対して小柳参謀は、神参謀から極めて重要な言質をとっています。命令に従い輸送船団を目指してレイテ湾に突入するが、その途中でもし敵主力部隊と出くわした場合は、輸送船団の殲滅よりも敵主力部隊の撃滅を優先させてもよい、との言質です。

    このことは後に、捷一号作戦の成否に大きな影響を与えることになります。

    - 栗田艦隊にわだかまる納得しがたい思い -

    二人のやり取りからは、事実上最後の連合艦隊となる栗田艦隊が輸送船団と差し違えて滅びることに、小柳参謀が憤懣(ふんまん)やるかたない思いを抱いていたことがわかります。

    その思いは小柳参謀だけが感じたものではありません。小柳参謀の報告を受けた栗田長官もまた、意外な面持ちを浮かべたと記されています。栗田長官は寡黙の人で知られ、なにがあっても動じない古武士のような風格をもった人でした。司令部の命令に愚痴をこぼすような人物ではないものの、納得できない思いをにじませ表情までは隠せなかったようです。

    小柳参謀から話を聞いた主要幹部たちは、敵港湾に突入して輸送船団を撃滅するという作戦に唖然とするばかりでした。

    「輸送船団と心中するなど馬鹿げている!」
    「これまで、なんのために猛特訓を積んできたのだ」
    「この作戦は兵術の堕落だ」
    「どうして敵主力艦隊との海上決戦を行わないのか!」

    さまざまな不満が噴出するのも、当時であれば当然の反応といえるでしょう。

    しかし、いったん下された以上は命令に従い、任務の成功に向けてあらゆる努力を惜しまないのが日本軍の伝統です。釈然としない思いを胸の奥に抱えながらも、栗田艦隊はレイテ湾突入を目指して黙々と準備を進めたのです。

    このときの様子を名著『徳川家康』で知られる文豪山岡荘八は、次のように記しています。

    今になって考えると、この主力艦隊が、捷号作戦発動の命令を受け取って、怒りと不満を爆発させなかったのがむしろ不思議であった……と、私は思う。

    これがもし日本でなくて、他国の出来事であったら、当然ここから大反乱か、大暴動か、あるいは単独降伏といった、収拾できない混乱を引き起こしたのであるまいか。

    それほどこの捷号発動の命令と、戦局の実態の間には、大きな矛盾と無理とが重なり合っていた。

    新装版 小説太平洋戦争 (4) 』山岡荘八著(講談社)より引用

    山岡は日本以外の国であったなら、捷号作戦を命じられた栗田艦隊が反乱を起こしても不思議ではなかったと喝破しています。

    それは小沢艦隊にしても西村・志摩艦隊にしても同様です。はじめから全滅を前提にしての作戦など、他国であれば考えられないことです。

    ところが日本軍では玉砕を前提とした斬り込み隊による敵陣への突撃が、すでに何度も繰り返されています。

    死中に活を求め、命よりも名を惜しむ武士道の精神は、まだこの時代の日本には根強く息づいていました。たとえ自らの身を犠牲にしてでも他者を活かそうとする思いを、多くの将兵が抱えていたのです。

    捷一号作戦の発動に伴い、栗田・小沢・西村・志摩の各艦隊は一路レイテを目指し、ついに動きはじめました。

    その2.栗田艦隊の出撃


    レイテ沖海戦に向けて出撃する栗田艦隊
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    10月18日、リンガ泊地にあった栗田長官が率いる第一遊撃隊は、燃料の補給を受けるためにブルネイに向かって出発しました。

    その途上の19日、司令部から「敵のタクロバン上陸は22~23日と予想されるのでX日(レイテ湾突入日)を24日黎明時にしようと思うが可能かどうか」との電報が寄せられています。

    この時点で司令部は米軍のレイテ上陸を22~23日と考えていたことがわかります。直前になってもなお司令部は、米軍の動きを読み違えていたのです。

    米軍がレイテ島のタクロバンに上陸を開始したのは20日でした。司令部の予測よりも二日も早い上陸です。

    米上陸軍を叩けるだけの航空兵力は、もはや日本軍には残されていませんでした。タクロバンの守備は手薄であったこともあり、上陸時の米兵の戦死者は49名のみと記録されています。米軍はほぼ無傷で上陸を果たしたのです。

    捷一号作戦の本来の目的が米軍の上陸時を狙って叩くという構想であっただけに、米軍が無傷で上陸を果たしたことは、作戦の意図したこととは真逆の結果になったことを意味します。

    20日にブルネイに入った栗田艦隊ですが、連合艦隊の手違いにより油槽船の到着が遅れたこともあり、24日のレイテ湾突入には間に合わなくなりました。そこで突入日を25日とすることが全軍に通達されています。

    問題はどの進撃航路を選ぶかにありました。ブルネイ湾からレイテ湾に達するには4つの航路があり、それぞれに一長一短があったのです。大艦隊の移動だけに燃料の補給にも問題がありました。

    潜水艦に狙われやすい危険水域や航空機からの攻撃にさらされやすい圏域もありましたが、最優先されたのは25日のできるだけ早い時間にレイテ湾に突入できることでした。

    米軍の上陸から時間がたつほど揚陸作業が進み、輸送船団殲滅の効果が薄れるだけに、時間との勝負だったのです。

    時間を稼ぐためには、あえて危険な水域でも無理を承知で進むよりないと判断されました。最終的に栗田艦隊はパラワン島の東岸を北上してシブヤン海に入り、サンベルナルジノ海峡
    を経てサマール島東岸を南下し、東方からレイテ湾に突入することになりました。このルートでは潜水艦に狙われやすいパラワン水道を通らなければなりません。

    足の遅い旧式艦から編成される西村艦隊は、米軍の制空権内に入るスリガオ海峡から北上してレイテ湾に突入することになりました。米機の攻撃を受ける危険性は高いものの、このルートが最短航路だからです。

    こうしてレイテ湾突入は25日の午前4時に決まりました。時間を合わせて栗田艦隊は東から、西村艦隊は南から同時にレイテ湾に突入する予定です。


    レイテ湾に進撃するための航路は4つあった。最終的に栗田艦隊が第三航路、西村艦隊が第四航路からレイテ湾を目指すことになった。
    海軍捷号作戦〈2〉フィリピン沖海戦 (戦史叢書) 』防衛庁防衛研修所戦史室 編集 (朝雲新聞社) より引用

    栗田艦隊は10月22日、午前8時にブルネイを出発。西村艦隊は7時間半後の15時30分に出港しました。

    一方、小沢艦隊は19日から20日の午前にかけて大分湾で116機の艦上機を搭載しています。艦載機の数は空母4隻を併せた定数の71パーセントに過ぎません。

    実はこのとき日本には、隼鷹・龍鳳の2隻の空母が残されており、新たに建造された雲龍・天城という正規空母もありました。待ち望んでいた新規空母がようやく完成したにもかかわらず、悲しいことに搭載できる航空機がなかったのです。そのため、今回の作戦への参加は見送られています。

    小沢艦隊は豊後水道東口を通って太平洋に進出し、ルソン北東海域を目指しました。

    志摩艦隊は21日に台湾の馬公から出撃しています。なお志摩艦隊に第一遊撃部隊の作戦に呼応してスリガオ海峡を突破してレイテ湾へ突入せよとの正式な命令が下ったのは23日のことです。


    10月22日正午時点の日米艦隊の動き
    『レイテ沖海戦』半藤一利著(PHP研究所)より引用

    日本の命運を託した4つの艦隊を主役とするレイテ沖海戦が、ついに始まりました。

    その3.不覚をとったパラワン水道の戦い

    - 米潜水艦による待ち伏せ攻撃 -


    パラワン水道における栗田艦隊の動き
    レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)』(学研プラス)より引用

    栗田艦隊はブルネイ湾を出ると同時に米潜水艦による攻撃を警戒し、之字運動に入りました。「之字運動」とは「之」の字の如くジグザグに航行することを指し、潜水艦の標的になることを避けるための基本的な対策です。

    ちなみに艦隊にとって、潜水艦と航空機による攻撃のどちらが怖いのかといえば、間違いなく潜水艦です。攻撃機から落とされる爆弾よりも、潜水艦から放たれる魚雷の方が破壊力が桁違いに大きいからです。

    実際のところ、貨物を載せた商船の大半は爆撃機ではなく潜水艦の魚雷によって沈められています。

    栗田艦隊にとって、もっとも警戒すべきは米潜水艦でした。
    22日は何事もなく平穏に過ぎ、夜7時には之字運動を解除して通常航行に戻っています。夜間は暗闇に包まれるため、潜水艦に捕捉される心配はほぼありません。

    栗田艦隊は23日0時に鬼門と見られていたパラワン水道に入り、16ノットで航行を続けました。パラワン水道は長さ約三百浬、幅三十浬から五十浬という狭い水道です。西側には水深の浅い岩礁地帯が広がっているため、下手に近づくと座礁する危険がありました。安全に航行できる幅は約46kmしかないため、米潜水艦が待ち受けるには絶好のポイントです。

    折しも通信隊より敵潜水艦の緊急通信を探知したとの報告が寄せられ、近くに米潜水艦が潜んでいる可能性が高いと判断されました。対潜警戒を一層警戒するようにと全艦に通知され、緊張感が高まるなか 23日の朝を迎えます。

    栗田艦隊はパラワン水道の中央付近にさしかかっていました。この場所は現在では中国が埋め立てを行い海上基地を造った南沙諸島とパラワン島の間、といった方がわかりやすいことでしょう。

    6時33分、突如として悲劇が起きます。先頭を航行していた旗艦愛宕が閃光に包まれるとともに黒煙に取り巻かれ、続いて白い煙を上空高くまで噴き上げたと思いきや大爆発を起こしたのです。

    米潜水艦による魚雷攻撃でした。愛宕は20分後に海中に沈み、機関長以下360名が戦死を遂げ、艦長以下623名が他の艦に収容されています。

    愛宕
    撃沈された重巡洋艦「愛宕」
    レイテ沖海戦(捷一号作戦)より引用

    愛宕のすぐ後ろについていた重巡高雄にも魚雷が命中し、大破。航行不能に陥りました。重巡摩耶も4本の魚雷を受け、7時5分に沈没。艦長以下336名が戦死、副長以下769名が他の艦に収容されています。

    旗艦愛宕に乗艦していた栗田長官は海中に放り出されたものの自力で泳ぎ抜き、駆逐艦岸波に移乗しました。

    旗艦が真っ先に沈められただけに艦隊では長官の安否が心配されましたが、岸波のマストに中将旗が上がったことにより健在であることが確認され、一同は胸を撫で下ろしています。

    なお愛宕と摩耶から海中に投げ出された若年兵の多くが戦死していますが、その原因は泳げなかったためです。当時は学校教育で水泳を習うことが少なく、海軍に入ってからはじめて泳ぐ練習をするのが一般的でした。

    ところが兵員不足に陥った海軍では、わずか3~4ヶ月の訓練のみで実戦に配備されたため、泳ぎ方をまだ習っていない若年兵が多かったのです。海軍の将兵でありながら泳げないと聞くと、今日の感覚では違和感を拭えませんが、当時は泳げない将兵が相当数いたのです。泳ぎの巧拙は生死に直結しました。

    - 駆逐艦をめぐる決断の成否 -

    潜水艦も去り、栗田艦隊はようやく悪夢から解放されました。航行不能に陥った高雄は戦列を離れることになり、曳航はマニラの南西方面艦隊司令部が引き受けることになりました。

    栗田長官は駆逐艦2隻を艦隊から分離し、高雄の護衛としてつけています。日本国民の命運を賭けた艦隊決戦を前に、ただでさえ数が足りていない駆逐艦2隻を手放したことは、高雄の乗組員を守るという極めて人道的な配慮といえます。

    駆逐艦の最大の役割は敵潜水艦への攻撃です。先の記事にてレイテ沖海戦に参戦した日米の艦艇数を比較しましたが、駆逐艦の総数は米軍127隻に対して日本軍はわずか35隻です。連合艦隊の弱点は駆逐艦が足りていないことでした。

    ここでは細かな解説は避けますが、戦闘艦艇にはそれぞれに役割があり、ある種の艦艇には強いがある種の艦艇には弱いといった特質があります。このあたりの事情はジャンケンを思い浮かべるとよいでしょう。

    戦艦や巡洋艦は潜水艦には弱く、駆逐艦や空母には強い特徴をもっています。ただし、空母に強いのは艦艇同士が射程距離内で戦った場合のことです。実際には空母は艦載機を備えているため、戦艦や巡洋艦の動きをいち早く知ることができます。そのため実戦では射程距離内に空母が接近することはあり得ません。空母は射程距離のはるか遠くから艦載機による攻撃を加えられるため、実質的には戦艦・巡洋艦より強いといえます。

    潜水艦は戦艦・巡洋艦・空母より強いものの、駆逐艦に対しては弱い特徴をもっています。戦艦や巡洋艦よりも弱く、潜水艦に強いのが駆逐艦です。

    もともと艦隊を編成して行動するのは、互いの艦艇のもつ弱点を補い合うためです。栗田艦隊でいえば、戦艦や巡洋艦を敵潜水艦から守るために駆逐艦がつき、駆逐艦を守るために戦艦・巡洋艦がいます。

    ですが、栗田艦隊には駆逐艦が15隻しかありません。通常、1隻の艦艇を守るためには複数隻の駆逐艦を必要とします。戦艦と巡洋艦を併せて16隻なのに、駆逐艦が15隻しかないのでは明らかに数が足りていません。

    それにもかかわらず栗田長官が高雄の護衛のためとはいえ、さらに2隻の駆逐艦を手放した処置については、後世の歴史家の批判を浴びています。

    パラワン水道で栗田艦隊を襲ったのは、2隻の潜水艦でした。米軍はたった2隻の潜水艦により、栗田艦隊の巡洋艦3隻を葬り、駆逐艦2隻を戦列から削ったことになります。米軍としては期待していた以上の大戦果でした。

    - 不覚をとった理由とは -

    アメリカ人研究家の多くは、パラワン水道での栗田艦隊の行動を不可解としています。たとえば、その陣形です。栗田艦隊では事前に十分に検討した末に陣形を決めたとしていますが、狭い水道内で潜水艦が魚雷を放つとすれば真正面からが自然であるだけに、最前列に駆逐艦を配すのが軍事における定跡です。

    ところが栗田艦隊では、もっとも危険な最前列に旗艦愛宕を配し、駆逐艦は左右に配しています。これでは旗艦が真っ先に狙われるのは当然である、と指摘されています。

    パラワン水道の栗田艦隊
    10月23日早朝、パラワン水道の栗田艦隊
    捷号作戦はなぜ失敗したのか―レイテ沖海戦の教訓』左近允尚敏著(中央公論新社)より引用

    栗田長官としてはなにか別の思惑があったのだと思われますが、パラワン水道にて戦艦にも見劣りしないといわれた日本が誇る3隻の巡洋艦を失ったことは、艦隊にとって大きな痛手でした。

    栗田長官にとって計算違いだったことは、潜水艦に対する哨戒を頼んでいた福留中将指揮下の基地航空部隊がその任務を果たさなかったことです。この日の早朝から対潜哨戒機を飛ばしてさえいれば、米潜水艦を発見できたかもしれません。

    たとえ発見できなかったとしても、対潜哨戒機が飛んでいるとなると米潜水艦の行動は著しく制限されるため、旗艦愛宕を攻撃したような絶好のポジションを確保できなかったことでしょう。

    しかし、対潜哨戒機は一機たりとも飛びませんでした。その理由は、哨戒に派遣する航空機がなかったためとされています。

    ただし、栗田艦隊にも対潜哨戒機がまだ残っていました。なぜ対潜哨戒機を飛ばさなかったのは謎です。

    一方、ハルゼーとキンケードはブルネイ湾を出てから消息が掴めなかった栗田艦隊の所在を、潜水艦からの報告によってようやく突き止めることができ、安堵しました。レイテを目指す栗田艦隊の動きを把握し、ハルゼーは十分な余裕をもって待ち構えることができたのです。

    隊列を整えて再び前進をはじめた栗田艦隊は、午後3時に栗田長官ら司令部が戦艦大和に乗り移り、マストの先に将旗を掲げました。このことは大和が栗田艦隊の旗艦になったことを意味します。

    大和を旗艦とすることは栗田艦隊のはじめからの願いでした。捷一号作戦を成功させるためには各隊との連携が重要になるだけに、通信設備の優れた大和か武蔵を旗艦にするべきと連合艦隊司令部に訴えましたが、「司令長官は全艦隊の指揮をとると同時に、水雷戦隊の夜襲、奇襲の陣頭指揮もとらなければならない。したがって大和のような巨艦でなく、少しでも軽快な愛宕に坐乗している方が適宜の処置がとりやすかろう」との理由で許されなかったのです。

    この頃からすでに栗田艦隊と連合艦隊司令部との不協和音は鳴り響いていたといえるでしょう。

    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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