レキシジン 第2部「フィリピン レイテ島の戦い」 2章「レイテ沖海戦」 #107 捷一号作戦の発動。レイテ沖海戦が行われた地域は日本の本州よりも大きかった

#107 捷一号作戦の発動。レイテ沖海戦が行われた地域は日本の本州よりも大きかった

第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

第2章.レイテ沖海戦

4.捷一号作戦の発動

その1.気づかなかった米軍上陸の動き


フィリピン方面の地図

10月17日、レイテ島の東約60kmに位置するスルアン島の監視哨から思いがけない悲壮な電信が司令部に届きました。

「午前八時、敵は上陸を開始せり。我は機密書類を焼き、敵を攻撃して玉砕せんとす。天皇陛下万歳。日本帝国万歳。」

米軍上陸を告げる電信は、日本軍がまったく予期していないものでした。

台湾沖航空戦を仕掛けることで米軍の計った陽動作戦は、日本軍を見事に欺いたといえるでしょう。米軍のフィリピン上陸に、日本軍はまったく気づいていなかったのです。

日本軍とて米軍が次に押し寄せるのはフィリピンに違いないと予測していましたが、上陸は早くても11月と見ていました。ところが一ヶ月も早く米軍が押し寄せるとは、まったくの見当違いでした。

734隻の大船団であるにもかかわらず発見が遅れたのは、警戒に油断があったためです。レイテは悪天候であったため、米機の行動が鈍かったことも油断を生んだ原因の一つです。

されど、なによりも大きかったことは台湾沖航空戦の大戦果を信じ切っていたため、米機動艦隊が壊滅した今、米軍の上陸はあり得ないと楽観していたことです。

台湾沖航空戦における幻の戦果は、さまざまな悪影響を日本軍にもたらしました。

米軍がレイテ上陸を狙っていることがはっきりしたため、10月18日、豊田連合艦隊司令長官は捷一号作戦の発動を宣言しました。

ついに日本の興亡を賭け、日本軍の総力を結集したフィリピン防衛戦の幕が切って落とされたのです。

しかし、捷一号作戦の発動が遅きに失したことは明らかです。すでにレイテまで60キロに迫っている米軍を押しとどめる術は日本軍にはありません。

フィリピンの各航空基地への空襲と台湾沖航空戦で戦力の大半を失った日本の航空兵力は建て直すまでに時間を必要とし、すぐに米輸送部隊を攻撃できる状況にはありません。

10月18日の時点でフィリピンに残っていた航空兵力は、海軍機約35機、陸軍機約70機という惨憺(さんたん)たる有り様でした。
連合艦隊は栗田健男中将の指揮する第一遊撃隊が、シンガポールの南80浬のリンガ諸島とスマトラ島との間に設けられていたリンガ泊地にあり、小沢治三郎中将が率いる機動部隊は瀬戸内海にいました。そのため、今から出動しても、米軍のレイテ上陸に間に合うはずもありません。


栗田健男:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 栗田健男(くりた たけお) 】1889(明治22)年 – 1977(昭和52)年
大正-昭和時代の軍人。最終階級は海軍中将。駆逐艦水雷長、駆逐艦長を歴任後、駆逐艦司令、水雷戦隊司令官を務めた。ミッドウェー海戦では攻略部隊支援隊として参加。重巡「最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動を続けたことが問題とされた。ただし、大本営の指示にも問題があり、栗田を擁護する論も多々あり。レイテ沖海戦では事実上の主力部隊となる第一遊撃部隊を指揮し、レイテ湾突入を目指すも、謎の反転を遂げたことで激しい批判にさらされた。反転については現在まで様々な論がある。「言い訳はするな」を信条とする栗田は、反転については黙したまま一切語らなかった。レイテ沖海戦後は終戦まで海軍兵学校校長をつとめる。戦後、職業軍人であったことから公職追放を受けた。軍人恩給の支給が停止されていた期間、通常であれば収入を絶たれた帝国海軍の将官クラスには多くの人から支援がなされるが、栗田については支援は一切なかった。晩年まで多くの批判の声にさらされたが、寡黙を貫いて逝く。

米軍上陸時を狙い澄まして一撃を加えるという捷一号作戦は、その根底からしてすでに崩壊していたといえます。

それでも今さら作戦を変更することもできず、上陸時の瞬間には間に合わないとしても、レイテ湾に上陸した米軍と輸送船団を殲滅することを目指して、捷一号作戦が実行に移されました。

なお、捷一号作戦の発動が遅れた原因のひとつに、豊田長官がたまたま日本を離れていたことがあげられます。豊田長官はフィリピン視察のために、10月2日に参謀2名を引き連れて東京を出発していました。

マニラに滞在後、10日には東京に戻る予定でしたが、折しもタイミング悪く沖縄と台湾が空襲されたため、台湾の高雄までは戻れたものの、そこから動けなくなってしまったのです。
豊田長官がようやく東京に戻ったのは、20日でした。

当時、連合艦隊の司令部は横浜の日吉台地下壕にありましたが、日吉と高雄の通信状況は悪く、今なにが起きているのかを豊田長官が把握することは困難でした。

その間の指揮は日吉にあった草鹿参謀長に任されたましたが、極めて重要な数日間、連合艦隊司令長官が指令を飛ばせない状況にあったことは、日本軍にとって不運でした。

18日の捷一号作戦の発動は、高雄に滞在中に出されたものです。もし豊田長官が日吉におり各地から入る情報を正確に把握していたならば、捷一号作戦をもっと早くに出せていたかもしれません。

はじめから後手に回ったことは、日本軍に不利な戦いを強いることになります。

その2.捷一号作戦の全容

- 参戦した4部隊 -

日本軍がフィリピン防衛のために最後の望みをかけた捷一号作戦とは、どのような作戦であったのか、その具体的な内容を見てみましょう。

捷一号作戦の最終目的は、日本が世界に誇った戦艦大和や武蔵を中心とする栗田艦隊をレイテ湾に突入させ、そこに停泊している米輸送船団を壊滅させるとともに、米上陸軍を殲滅することです。

栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるために、複数の部隊が連携して手助けする運びとなっていました。

連携が損なわれては成功の見込みがないだけに、捷一号作戦は極めて複雑で高度な作戦だったといえます。

先にも説明しましたが、当時の日本海軍の戦力は米海軍の四分の一ほどしかありません。さらに台湾沖航空戦にて航空兵力の大半を失ったため、輪をかけて圧倒的に不利な戦いに臨むことになりました。

この状態で正面からまともにぶつかったのでは、米海軍に粉砕されるであろうことは間違いありません。そこで日本海軍は軍事の常識を打ち破る奇想天外な作戦を立てました。

捷一号作戦に参加する連合艦隊の部隊は4つです。作戦の核となる本隊は栗田中将の率いる第一遊撃隊です。大和以下戦艦4、重巡10、軽巡2、駆逐艦15からなる大艦隊でした。空母を欠いているため機動艦隊ではありませんが、第二次世界大戦を通して水上部隊としては間違いなく最強といえる堂々たる偉容を誇っています。

これだけの大艦隊がレイテ湾に突入できたならば、米輸送船のことごとくを沈め、米上陸軍に対しても多大な損害を与えられると、大きな期待を背負いました。

連合艦隊に残っていた虎の子の空母を集め、機動艦隊として出撃したのは小沢艦隊です。正規空母瑞鶴に加え、改装空母として瑞鳳・千歳・千代田からなる全部で4隻の空母を中心に航空戦艦2隻、軽巡2隻、駆逐艦8隻からなる機動部隊でした。

他に西村祥治中将の率いる別働隊がありました。西村艦隊は第一遊撃部隊のなかから速度の遅い旧式軍艦2、重巡1、駆逐艦4を取り出した部隊です。新鋭艦が揃う栗田艦隊の足手まといにならないように、栗田艦隊とは別の最短ルートからレイテ湾突入を目指すことになっていました。


西村祥治:秋田県立秋田高等学校同窓会 より引用
【 人物紹介 – 西村祥治(にしむら しょうじ) 】1889(明治22)年 – 1944(昭和19)年
明治-昭和初期の軍人。最終階級は海軍中将。開戦時は第四水雷戦隊司令官。ミッドウェー海戦後は第七戦隊司令官となる。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ニュージョージア島の戦い、ラバウル空襲など、常に最前線でアメリカ軍と交戦した。本来であれば艦隊司令長官を任されるはずだったが、風雲急を告げる戦局にあって第二戦隊司令官に就任、栗田司令長官の指揮する第二艦隊に編入された。レイテ沖海戦では第一遊撃部隊第三部隊指揮官として戦艦山城に座乗。連合艦隊司令部の下令に従いスリガオ海峡に突入するも米海軍に丁字戦法で迎え撃たれ、全滅。旗艦山城とともに沈んだ。最後の発信は「我、レイテ湾に向け突撃、玉砕す」であった。戦中・戦後まもなくは、その死を「猪突猛進の犬死にだった」と酷評する人たちも少なくなかった。しかし、調査が進むにつれ、その評価は「武人の鑑」「日本海軍、最後の勇将」と大逆転を遂げた。今日における評価は極めて高い。

最後の一つの部隊は志摩清英中将が率いる第二遊撃部隊です。志摩艦隊は重巡2、軽巡1、駆逐艦4の合計7隻からなる部隊でした。当初、第二遊撃隊は小沢部隊の護衛にあたる予定でしたが、台湾沖航空戦に勝ったと信じた海軍は志摩艦隊に米機動艦隊の追撃を命じたため、小沢艦隊と離れていました。そのため志摩艦隊を捷一号作戦でどう使うのか最後まで決まりませんでしたが、最終的には西村艦隊と同じルートでレイテ湾に突入することになりました。


志摩清英:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 志摩清英(しま きよひで) 】1890(明治23)年 – 1973(昭和48)年
明治-昭和時代の軍人。最終階級は海軍中将。第19戦隊司令官・第16戦隊司令官・横須賀鎮守府海軍通信学校長を経て、第5艦隊司令長官に就任。台湾沖航空戦後、「敗走中」とされる米第38任務部隊の追撃をした際、米提督のハルゼーが損傷艦を故意に目立つ位置に配置し、志摩艦隊を誘引するも、正確な敵情分析から台湾沖航空戦での大本営発表が誤報だと看破し、進撃を中止、艦隊は難を免れた。レイテ沖海戦にて第二遊撃部隊を率い西村艦隊と共同してスリガオ海峡経由でのレイテ突入の任務を請け負うが、スリガオ海峡海戦にて先行する西村艦隊の全滅を見て突入を断念、駆逐艦一隻の損害のみで鮮やかに撤退した。この撤退についての米軍の評価は高い。

下の図は、実際に4つの部隊がたどった航路を示したものです。


大日本帝国の興亡〔新版〕4:神風吹かず』ジョン・トーランド著(早川書房)より引用

- 小沢機動艦隊に課せられた過酷な使命 -

捷一号作戦は機動部隊を囮として使うという世界の海戦史に前例のない気宇(きう)壮大な作戦でした。

栗田艦隊と西村艦隊・志摩艦隊は二方向に分かれ、南方から同時にレイテ湾へ突入する予定でしたが、当然ながらレイテ湾にすんなり到達できるはずもありません。米機動部隊が手ぐすね引いて連合艦隊を待ち受けているからです。

米軍の主力はハルゼー提督率いる第三艦隊とトーマス・キンケイド中将が率いる第七艦隊です。その2つの艦隊を併せた米軍全体の戦力は、空母35、戦艦12、重巡11、軽巡15、駆逐艦127です。


トーマス・C・キンケイド:wikipedia より引用
【 人物紹介 – トーマス・C・キンケイド 】1888年 – 1972年
アメリカの軍人。最終階級は海軍大将。アメリカが第二次世界大戦へ参戦する数ヶ月前に駆逐艦隊の指揮官となる。後に太平洋艦隊巡洋艦部隊の指揮官として太平洋戦線に着任、機動部隊を指揮し、ソロモン諸島の戦いに参戦した。1944年には南西太平洋方面軍海軍司令官および第7艦隊司令官に着任、アメリカ海軍及びオーストラリア海軍を指揮しニューギニア戦役、レイテ沖海戦に参加した。レイテ沖海戦では不意を突かれて栗田艦隊のレイテ湾突入を許す失態を犯したが、栗田艦隊の謎の反転により救われる。戦後も第7艦隊を指揮し、朝鮮半島及び中国近海での作戦行動に従事した。

対する日本軍全体の戦力は、空母4、戦艦9、重巡14、軽巡7、駆逐艦35です。戦闘艦艇の総数を比べると、米軍200隻に対して日本軍は69隻に過ぎません。さらに米軍の潜水艦は36隻、ここにイギリスとオランダの14隻を加えると50隻以上になります。

単純に艦艇数を比べても大差ですが、なにより大きいのは米軍の擁する35隻もの空母です。艦載機の数は1000から1400機にものぼるだけに、レイテ沖の制空権を米軍が制することは明らかでした。

米軍の圧倒的な戦力の前に、栗田・西村・志摩艦隊が真正面から勝負を挑んだところで、レイテ湾に到達する前に壊滅することは目に見えています。そこで日本軍は小沢艦隊を囮として用いることで、ハルゼーの機動艦隊を吊り出す作戦を立てました。

近代の海戦の常識に照らすならば、4つの部隊のなかで主戦力と目されるのは、間違いなく小沢機動部隊です。ハルゼーも小沢部隊を日本軍の主力と考えるだろうから、小沢部隊を殲滅(せんめつ)するべく追いかけるに違いない、ハルゼーの第三艦隊を小沢艦隊が北方へと引きつけている間に、手薄となったレイテ湾へ栗田・西村・志摩艦隊が南方からなだれ込むことで勝機を掴(つか)もう、とするのが捷一号作戦です。

海戦の主力となるべき機動部隊をあえて囮にするという大胆な発想ですが、これは単に奇をてらったわけではなく、当時の日本海軍が抱える如何ともしがたい現実に根差しています。
空母を戦力として使いたくても、連合艦隊には空母に載せる航空機そのものがありません。先に台湾沖航空戦において整備済み艦載機の3分の2を航空基地に移動し、その大半を失っていたため、小沢艦隊に残された艦載機はわずか116機に過ぎませんでした。

しかもパイロットの熟練度は低く、空母から飛び立つことはできても、空母の甲板にまともに帰艦できないパイロットが大半を占めている状況です。

艦載機がわずかしかなく、パイロットの技量も低いからには、機動部隊としての本来の役割を果たせないことは明らかです。だからこそ小沢艦隊は囮としての任務を与えられたのです。

本来は護衛にあたるはずだった志摩艦隊もなく、わずかな艦載機もまともに使えない状況でハルゼーの第三艦隊を囮として一手に引きつけたならばどうなる結末が待っているのか、考えるまでもありません。

小沢艦隊が全滅を免れないことは、誰の目にも明らかです。小沢中将も当然ながら、全滅を覚悟しての出陣でした。

- 全滅すれどもやむを得ず -

栗田艦隊と別ルートでレイテ湾に突入する西村艦隊にしても志摩艦隊にしても、栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するための役割を与えられています。両艦隊の戦力はあまりに低く、米艦隊の包囲網を破ってレイテ湾にたどり着けるとは想定しにくい状況でした。

つまりは、両艦隊とも囮であったといえるでしょう。寄せ集めに過ぎない微弱な戦力をもって、強力な米艦隊に挑むこと自体からして、そもそも無謀です。はじめから全滅覚悟で挑む戦いであることは明らかでした。

3つの部隊の犠牲の上にレイテ湾突入を課せられた栗田艦隊にしても、悲壮感がみなぎっています。思い描いた通りに事が運び、たとえレイテ湾突入を果たせたとしても、狭い湾に入るからには出口を封鎖されることはわかりきっています。

レイテ湾にて持てる砲弾をすべて打ち尽くせば米輸送船団を壊滅し、米上陸軍にも相当の損害を与えることは可能かもしれませんが、全弾打ち尽くした後の栗田艦隊の末路もわかりきっています。

湾内に閉じ込められた栗田艦隊がタクロバンの飛行場から飛び立った米攻撃機の猛攻にさらされ、やがて全滅することは間違いありません。

こうして検討してみると、捷一号作戦の本質が見えてきます。捷一号作戦とは、連合艦隊による特攻攻撃だったといえるでしょう。生還の望みはほとんどなく、もとより全滅を覚悟しての捨て身の特攻です。

たとえ連合艦隊のすべての戦力を失ってでもフィリピンを死守することを、大本営は意図したのです。

米輸送船団を壊滅させることは、それと引き換えに連合艦隊がなくなったとしても釣り合いがとれることだと大本営は判断していました。その背景には、先に紹介した「一撃爾後講和主義」があります。

もはや大東亜戦争での日本の敗戦は必至であり、米軍に一撃を加えた後にできるだけ有利な条件で講和に持ちこむことを軍上層部は狙っていました。

一撃によって米軍に多大な人的被害を与えることができれば、アメリカ国民の間に戦争継続に対して否定的な世論が台頭するに違いないと期待したのです。そうなるとアメリカは民主主義国であるだけに、米政府としても世論に迎合するよりありません。

そこにこそ日本が求める早期講和を為す綾があると、軍上層部は望みを託したのです。

そもそもフィリピンが米軍の手に落ちたならば、石油などの南方資源を入手できなくなります。連合艦隊がどれだけ艦艇を温存してたとしても、石油がなければ動かすことさえできません。

艦隊を温存するよりも万が一の僥倖(ぎょうこう)に賭けて連合艦隊に死に場所を与えることを、首脳部は決断したのです。

- 海軍上層部と現場とのすれ違い -

ただし、軍令部や連合艦隊の首脳部がそのように考えていたとしても、実際に捷一号作戦に参戦する将兵に同じ意識が共有されていたわけではありません。

将棋の駒は指し手の意志のままに疑問を挟むこともなく忠実に動きますが、実際の戦場にいる将兵は将棋の駒と違い、ときに軍上層部の意図したこととは異なる行動を、独自の判断の下に為します。

捷一号作戦においても、同様です。上層部の意図した全滅覚悟の特攻攻撃に素直に身を投じる部隊もいれば、結果的に従わなかった部隊もいました。生と死の狭間におかれた将兵たちの葛藤が複雑に絡み合うことで、捷一号作戦は意外な結末を迎えることになります。

こうして捷一号作戦のためにレイテ沖の広い範囲に展開した連合艦隊と、それを迎え撃つ米軍との間で激しい海空戦が起こりました。

世にいうレイテ沖海戦です。「レイテ沖海戦」は日米ともにミッドウェー海戦ほどの知名度はありませんが、現在に至るまで史上最大の海戦であったとされています。

レイテ沖海戦が行われた地域は10万平方マイル以上です。古今東西の海戦史上、これほど広範囲にわたり、両軍合わせて283隻もの戦闘艦艇が入り乱れて戦った例はありません。
*10万平方マイル=258,999 km²、日本の本州が228,000 km²です。

戦い方も多彩でした。対空戦もあれば対水上船もあり、対潜戦や両用戦も行われています。これだけスケールの大きな海戦は、恐らく今後も起こらないことでしょう。

一口に「レイテ沖海戦」と呼びますが、実際には4つの大きな海戦が含まれています。栗田艦隊が米機の猛攻を受けたシブヤン海の海戦、西村・志摩艦隊がレイテ湾を目指して進む最中に起きたスリガオ海峡の海戦、栗田艦隊が華々しく水上戦を展開したサマール沖海戦、小沢艦隊とハルゼーの第三艦隊が激突したエンガノ岬沖海戦の4つです。


レイテ沖海戦の全体をまとめた図
『レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)』(学研プラス)より引用

その一つひとつの海戦だけを取り上げてみても戦史に残る立派な海戦ですが、すべての海戦が栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するために戦われたことにおいて、「レイテ沖海戦」という一つの海戦として括られています。

さらにレイテ沖海戦において、はじめて神風特攻隊による攻撃が行われました。神風特攻隊が編制されたのも、栗田艦隊のレイテ湾突入を助けるためでした。

「レイテ沖海戦」がどのような過程をたどり、どのような結末となったのか、その史上最大の戦いを振り返ってみます。

ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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