第1部4章 日米交渉(35/36)そして開戦へ。秘匿された真珠湾攻撃と遅れた宣戦布告

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

開戦を決めた12月5日の御前会議
[fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
開戦を決めた12月5日の御前会議[/fontsize]

前回はハル・ノートが最後通牒であったか否かについてたどりながら、アメリカ側の戦争責任について言及しました。

今回は開戦阻止へ向けた最後の試みを追いかけながら、12月8日に向けた日米両国の動きについて確認します。

4-14. そして、開戦へ

その1.開戦阻止へ向けた最後の試み

ハル・ノートを受け取ったことで絶望感に打ちひしがれ、日本は開戦やむなしの一本道を突き進みました。

しかし、避戦に向けて最後の開戦阻止活動も行われています。その中心となったのが、戦後に首相を務めた吉田茂です。

吉田茂(よしだ しげる)
wikipedia:吉田茂 より引用
【 人物紹介 – 吉田茂(よしだ しげる) 】1878(明治11)年- 1967(昭和42)年
大正-昭和期の政治家。第45・48・49・50・51代内閣総理大臣。外務省に入省後、奉天総領事・駐伊・駐英大使を歴任。親英米派として軍部から排斥される。開戦前にはグルー米大使や東郷外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが、実現せず。戦後、東久邇宮・幣原内閣の外相を経て、組閣。1946年から一時期を除き1954年まで政権を独占した。占領軍の指導の下、吉田ドクトリンによって戦後日本の立直しを遂行し、単独講和(サンフランシスコ平和条約)を行い日米安保体制の基本線を敷くとともに、戦後日本復興の枠組みを作った。政界引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。享年90。

吉田は義父にあたる牧野伸顕にハル・ノートを見せています。牧野は大久保利通の次男として生まれ、外相経験のある長老です。牧野は「今日もし日米開戦するに至り、一朝にして明治以来の大業を荒廃せしむるようなことあらば、当面の責任者の一人たる外務大臣として、陛下および国民に対して申し訳ない」と語ったとされます。

牧野は開戦に反対でした。

牧野伸顕(まきの のぶあき)
wikipedia:牧野伸顕 より引用
【 人物紹介 – 牧野伸顕(まきの のぶあき) 】1861(文久元)年 – 1949(昭和24)年
明治-昭和時代前期の政治家・外交官。大久保利通の次男。吉田茂の岳父。文相・外相・内大臣などを歴任。パリ平和会議の全権委員、日本側の中心としての役割を果たした。その後、内大臣となり天皇側近の実力者として重きをなすも、二・二六事件で襲われ、引退した。

牧野の意向を受け、吉田は東郷外相を訪ねると「実際の腹のなかはともかく、外交文書の上では(ハル・ノートは)決して最後通牒ではない」と繰り返し述べ、東郷の翻意を促しました。

「私(吉田)は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが(閣議で)聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいった」

回想十年』吉田茂著(中央公論新社)より引用

たしかに東郷外相が開戦に同意できないと辞任したならば東条内閣崩壊となるため、開戦決議まで相当の時間がかかったことは間違いないでしょう。

されど、東郷は辞任しませんでした。その理由について東郷は次のように綴っています。

(アメリカは)全面的屈服か戦争を求めて来たのであるが、日本は斯る屈辱を甘受する訳に行かず、止むなく立つと云う状勢に陥ったのである。日本は満洲事変以来緊張しきって居るのであるから、緊張しきった力を発揮した後ならいざ知らず、一九四一年十一月の頃に米の圧迫に全面的に屈伏し得る内閣が出来ようとは考えられなかった。従て内閣更迭を計っても、事態の改善にはなり得ないし、又予が辞職する場合一身の安全を保全することになるかも知れぬが、徒(いたずら)に責任を逃避することになるのみであったので、自分は敢て職に止って更に米国に反省を求め、最後の瞬間迄平和の為めに努力し、又戦争となった場合には、日本及世界の為め、戦争の早期終結の為め、全力を尽す決心をした。

吉田の説得は失敗に終わりました。吉田と東郷の確執は深く、戦後の東京裁判で東郷が被告となった際に友人たちが赦免願いを出すことになり、吉田も請願人の署名を頼まれましたが「東郷君は開戦時の外務大臣だから、日米交渉が失敗に帰した際に、潔く責任をとって辞めるべきであったのに、便々としてその後も居座ったのは、はなはだ心得難い。だから赦免願いに署名せぬ」と拒絶しています。

その2.空振りに終わった重臣懇談会

吉田が次に画策したのは、重臣会議による開戦阻止でした。発案したのは幣原喜重郎元外相であったとされます。政府が開戦か戦争回避かの決定を下す際、さらに重臣会議に諮問(しもん)させることを狙った動きでした。

最後の決定を下すにあたり、重臣の意見も聞きたいと天皇が希望したことにより、吉田が構想した重臣会議が実現するかに見えたのですが、待ったをかけたのは東条首相でした。

東条は国家としての重要問題に際し、法的に責任のない者を入れて審議することに反対しました。それでも天皇は、重臣会議が駄目であれば自分の前で懇談させてはどうかと提案しています。

連絡会議が開かれ、その是非について議論が為されました。その結果、賛成したのは東郷外相ただ一人でした。

当時の天皇の権威が絶対であったとはいえ、重臣会議さえ自由に開けなかったのです。

結局、29日の午前に総理経験者ら重臣を宮中に招き、政府が状況を説明した後、天皇と食事を交えながら懇談することに落ち着きました。

29日の午前9時半より東条首相と東郷外相から開戦決意についての説明が為され、重臣たちに了解が求められました。

● 開戦まであと9日 = 1941年11月29日

その際の質疑については資料によって異なり、はっきりとはわかっていませんが、陸軍出身の林銑十郎・阿部信行以外は了解せず、避戦を唱えたとされます。

林銑十郎(はやし せんじゅうろう)
wikipedia:林銑十郎 より引用
【 人物紹介 – 林銑十郎(はやし せんじゅうろう) 】1876(明治9年) – 1943(昭和18年)
明治-昭和時代前期の軍人・政治家。第33代内閣総理大臣。最終階級は陸軍大将。豪快なカイゼル髭で知られる。陸大校長・近衛師団長などを歴任。満州事変に際し朝鮮軍司令官として独断出兵し「越境将軍」と呼ばれた。斎藤実内閣の陸相に就任して統制派の立場に立った軍政を推し進め、皇道派の真崎甚三郎を更迭。広田弘毅内閣の総辞職後、宇垣一成の組閣流産のあとを受けて首相に推され組閣。予算成立直後に突然抜打ち解散を断行(食い逃げ解散)。政党に打撃を与え一挙に親軍与党の拡大を狙うも選挙で大敗し、わずか4ヵ月の短命内閣に終った。そのため「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
阿部信行(あべ のぶゆき)
wikipedia:阿部信行 より引用
【 人物紹介 – 阿部信行(あべ のぶゆき) 】1875(明治8)年 – 1953(昭和28)年
陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。第36代内閣総理大臣。1939年、平沼内閣のあとを受けて組閣。第二次大戦への不介入と日中戦争の早期解決を声明したが、国内外の混乱に対応できず、4か月余りで内閣総辞職。後に中国大使・翼賛政治会総裁・朝鮮総督を務めた。

そのことを伝え聞いた参謀本部の中堅幕僚は『機密戦争日誌』に、次のように綴っています。
「国家興亡の歴史を見るに国を興すものは青年、国を亡ぼすものは老年なり
 重臣連の事勿(なか)れ心理も已(や)むなし、若槻、平沼連の老衰者に皇国永遠の生命を托する能はず
 吾人は孫子の代迄(まで)戦ひ抜かんのみ」

その後の天皇との懇談においては現状維持を主張するのが精一杯であり、強く戦争反対を訴える重臣はいませんでした。

現状維持を主張する重臣一人ひとりに東条は反駁(はんばく)し、その場を乗り切ったとされます。

最後に若槻礼次郎は「戦争が自存自衛上真に巳むなしとすれば、敗戦を予見し得る場合といえどもあるいは立たざるを得ませぬが、それが国策上の理念、たとえば大東亜共栄圏とか、東亜の安定勢力とかの理想に駆られての戦いなら誠に危険千万と申さなければなりません」と主張しています。

若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
wikipedia:若槻禮次郎 より引用
【 人物紹介 – 若槻禮次郎(わかつき れいじろう) 】1866(慶応2)年 – 1949(昭和24)年
明治-昭和時代前期の政治家。第25・28代内閣総理大臣。大蔵次官を経て第3次桂太郎内閣・第2次大隈内閣の蔵相に就任。のちに憲政会総裁となり組閣。ロンドン海軍軍縮会議首席全権。第2次若槻内閣を組閣したが、満州事変後の閣内不一致のため総辞職。その後、重臣会議のメンバーとなる。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。1944年、重臣会議に出席した東条を戦時経済遂行の面で激しく論難、東条の面目を失墜させ、東条内閣倒閣に重要な役割を果たした。享年83。

首相経験者の重臣たちは、ハル・ノートを突きつけられたことをもって直ちに開戦に至ることを早計と諫言したことになります。

ただし、命を賭してまで開戦を止めようとした重臣がいなかったことはたしかです。重臣の強い諫言によって開戦を阻止しようとした吉田の目論見は、見事に粉砕されたのです。

重臣懇談会を終えた直後に連絡会議が開かれ、全員が異議なく対米英蘭戦争開戦を決しました。同時に開戦決意の御前会議を開催する奏請を行うことも決しています。

いよいよ開戦に向けた最終決定の時が、近づいていました。

その3.海軍への最後の確認

避戦に向けた最後の抵抗となったのは、皇族である高松宮から為された天皇への直訴でした。

高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう)
wikipedia:高松宮宣仁親王 より引用
【 人物紹介 – 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう) 】1905〈明治38〉年 – 1987〈昭和62〉年
大正天皇の第3皇子。高松宮家を創立して有栖川宮家の祭祀(さいし)を継ぐ。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。海軍大学校卒業後、戦艦「比叡」砲術長を経て横須賀海軍航空隊教官に補される。開戦前に軍令部部員と大本営海軍参謀を務めた。開戦前に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上した。開戦後も和平を唱え、嶋田海相の辞任や東条内閣の総辞職を度々主張した。大戦末期にはフィリピンに向かう大西中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えた。享年82。

11月30日、海軍軍令部作戦課に籍を置いていた高松宮は天皇を訪ね「海軍の真意はできるだけ日米開戦を回避したいようであるから、陛下がもう一度それをお確かめになってはいかがか」との旨を言上しました。

● 開戦まであと8日 = 1941年11月30日

その時の様子は『昭和天皇独白録』に、次のように記されています。

翌三十日、高松宮が昨日の様子をききに来た、そして「今この機会を失すると、戦争は到底抑へ切れぬ、十二月一日から海軍は戦闘展開をするが、己にさうなったら抑へる事は出来ない」との意見を述べた。戦争の見透に付ても話し合ったが、宮の言葉に依ると、統帥部の予想は五分五分の無勝負か、うまく行っても、六分四分で辛うじて勝てるといふ所ださうである。私は敗けはせぬかと思ふと述べた。宮は、それなら今止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな「クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかった。

昭和天皇独白録』寺崎英成著(文藝春秋)より引用

ここでもやはり天皇が、開戦を拒否するとなるとクーデターが起こる心配をしていたことがうかがえます。「敗けはせぬかと思ふ」としながらも、戦争を止める決断までには至らなかったのです。

天皇は高松宮の言上をたしかめるべく永野軍令部総長と嶋田海相を呼び寄せ、海軍として開戦に自信がもてるのかを問い質しています。

前日には海軍出身の元首相である岡田啓介と米内が日米開戦に消極的な姿勢を見せていただけに、ここで現役の海軍大将である永野か嶋田のどちらかが対米戦に自信なしと答えたならば、ともすれば9月26日の開戦決議が白紙に戻されたように、今一度避戦への巻き戻しがあったかもしれません。

岡田啓介(おかだ けいすけ)
wikipedia:岡田啓介 より引用
【 人物紹介 – 岡田啓介(おかだ けいすけ) 】1868(慶応4年)年 – 1952(昭和27)年
明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。第31代内閣総理大臣。第1次大戦中より海軍中枢部の要職を歴任。田中・斎藤両内閣の海相を経て、組閣。軍部の進出をおさえられないまま二・二六事件で首相官邸を襲撃されたが、あやうく難を逃れた。事件後に内閣は総辞職した。アメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うようにいかなかった。重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たる。

戦中はミッドウェーでの敗退後、もはや対米戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、東条内閣打倒の運動を行う。マリアナ沖海戦の大敗により海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求し東条内閣の切り崩しを図った。東条は岡田に自重を求め、逮捕拘禁も辞さないとの態度に出たが、岡田はびくともしなかった。宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンが陥落し、東条内閣は総辞職を余儀なくされた。東条内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるとされる。終戦工作にも大きく貢献した。戦後は公職追放・解除を受け、85年の生涯に幕を閉じた。

米内光政(よない みつまさ)
wikipedia:米内光政 より引用
【 人物紹介 – 米内光政(よない みつまさ) 】1880(明治13)年 – 1948(昭和23)年
明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。第37代内閣総理大臣。日露戦争の際は日本海海戦に従軍。佐世保・横須賀等の司令長官を経て、連合艦隊司令長官に就任。林銑十郎・第1次近衛文麿・平沼騏一郎各内閣の海相を務め、日中全面戦争の開始に際しては不拡大論を唱え、陸軍の進める日独伊三国同盟締結に終始反対した。1940年1月に首相となり組閣するも、三国同盟に反対したため陸軍により半年で辞職に追い込まれる。東条内閣崩壊後、小磯・鈴木・東久邇・幣原の各内閣で海相を歴任、終戦の難局に善処した。穏和な人柄の人物であり、海軍穏健派のエース的存在であった。いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史として定着する上で、大きな役割を果たした。

しかし、開戦へ向けてすべてが動いている今、永野にしても嶋田にしても自信のない態度を表すことはできませんでした。

永野総長は「計画は万全であります。くわしくは明日の御前会議で奏上いたしますが、大命降下あれば、予定どおり進撃いたします」と答え、嶋田海相は「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております」と明言しています。

こうなっては天皇としても、開戦を拒否する大義名分が失われたも同然です。永野と嶋田の答弁をもって、戦争回避を目指す動きは、ついにすべて封じられたのです。

その4.12月1日御前会議

最終的な開戦を決議するための御前会議が12月1日に開かれました。このときの御前会議には全閣僚が出席しています。御前会議決定が即座に閣議決定となることを意図した異例の計らいでした。

● 開戦まであと7日 = 1941年12月1日

すでに開戦への流れを押しとどめようもないことを、出席者全員がわかっていました。御前会議は始まる前から結論が出ている開戦へ向けて、淡々と進められました。

その間、天皇はひと言も発することなく、慣例に従って無言で会議の成り行きを見守っています。

やがて、次の決議が為されました。

十一月五日決定の「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉遂に成立するに至らず 帝国は米英蘭に対し開戦す

遂に日本は国家意思として開戦を決意したのです。

それと同時に、真珠湾に向かっていた連合艦隊機動部隊に対し、山本五十六司令長官より暗号電文が発信されました。

連合艦隊は東経百八十度の日付変更線を、ちょうど越えようとしていました。もし、避戦が決定されれば引き返しを指示する電文が発信される手はずになっていたのです。

しかし、発信されたのは真珠湾攻撃決行を意味する「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」でした。「12月8日午前0時を期して戦闘行動を開始せよ」の意味です。

それまでは作戦準備行動であったものが、「ニイタカヤマノボレ」によってはじめて、戦闘行為に突入したことになります。

かくして日本は長い逡巡の果てに、国家の興亡をかけて開戦へと突き進んでいったのです。

その5.真珠湾攻撃までの日米の動き

- 秘匿された真珠湾攻撃 -

真珠湾攻撃は米国艦隊の壊滅を第一の目的とし、これによってアメリカが戦意を喪失することを期待して為された奇襲攻撃です。対米英蘭戦における日本の望みは、初めの一撃でアメリカとイギリスに壊滅的な打撃を与えることでした。

それは山本五十六連合艦隊司令長官を中心に、数ヶ月間にわたって練ってきた作戦でした。ハワイまでは航行距離が長く、日数がかかるため、攻撃部隊はすでに11月26日にはハワイへ向けて出撃しています。

日本が目指したのは、あくまで奇襲です。真珠湾攻撃の30分前に戦争開始を告げる宣戦布告がワシントンに届く予定でしたが、日本側の手違いにより送信が遅れ、宣戦布告がアメリカ政府に届いたのは真珠湾攻撃開始からおよそ50分後のことでした。

宣戦布告はハーグ第三条約に定められた国際的遵守事項です。ただし、自衛戦争の場合には適用されないと理解されていました。相手から武力行使を仕掛けられた場合、及び挑発を受けた場合には、これから武力行使をする旨の宣告は不要と解釈されていたのです。

そのため、日本からアメリカに届けられた最後通牒分の末尾には、
「「仍《ヨツ》テ帝国政府ハ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」
と日米交渉の打ち切りについての宣告はありますが、はっきり武力行使に出るとは書かれていません。

東郷外相は「(アメリカが)日本に先ず手出しせしむるように仕向けた。之を挑発と云わずして何と云おうか」と述べ、最後通牒文は外交打ち切りを宣告するだけで十分であり、アメリカ側には宣戦布告であると明確に理解されるはずだ、と主張しました。

ところが外務省の手違いにより、最後通牒文をアメリカに手渡す前に攻撃が行われたことから、真珠湾攻撃は卑怯なだまし討ちとして今日まで語り継がれています。

ただし、ルーズベルトもハルも、真珠湾攻撃の行われる14時間ほど前には、マジック情報によって日本の最後通牒文(全部で14本ある内の13本分)の内容まで、すでに知っていたことが明らかとなっています。

最後通牒文に目を通したルーズベルトは「これは戦争ということだ」と語ったことが記録に残されています。そのことはルーズベルトが日本の開戦意思を、正しく受け止めたことを意味しています。<注釈 - 4-14-1>

<注釈 - 4-14-1>
宣戦布告にあたる対米覚書はマジックによってアメリカに全文が解読されていました。対米覚書は全部で14部で構成されています。このうち13部までは6日に打電され、日米交渉の打ち切りを宣言した最後の14本目は真珠湾攻撃の当日である翌7日(米国時間)に打電される手はずになっていました。

先に打電された13部は6日の午後9時半頃にルーズベルトに届けられています。それを見たルーズベルトは側近のホプキンズに対し「これは戦争ということだ」と語ったとされています。つまり、この時点でルーズベルトは日米戦争がまもなく起こると認識していたことになります。

最後の14本目が解読され、ルーズベルトに届けられたのは7日の午前10時頃です。

真珠湾攻撃が行われたのがワシントン時間の7日の午後1時過ぎのことです。野村・来栖両大使がハル国務長官に対して日米交渉の打ち切りを通達する文書を手渡したのは7日の午後2時19分であったため、真珠湾攻撃の始まった後に伝達したことになります。

しかし、すでに午前10時にはルーズベルトもハルもマジック情報の解読によって、実はその内容を知っていたのです。

外交打ち切りを宣告する14本目の最後通牒文がルーズベルトやハルに渡ったのは、真珠湾攻撃が開始される3時間ほど前のことでした。

最後通牒の送信が遅れたことは日本にとっての痛恨事ですが、「奇襲」そのものは古くからある戦略の一つであり、なんら非はありません。

日本と米英蘭の太平洋での戦力比からして緒戦の勝利は見込まれていたものの、今後の長い戦いを見据えた上で、真珠湾攻撃の成否に国家の興亡が託されていたことは間違いありません。

情報が漏洩しないように真珠湾攻撃については徹底的に秘匿され、軍部の関係者以外には知らされませんでした。東郷外相も知らなければ、まして野村・来栖両大使にも一切知らされていません。

そのため、ワシントンの両大使には日米交渉の打ち切りについての指示は直前まで出されませんでした。両大使はなにも知らないまま懸命に日米交渉を続け、12月1日には行き詰まった日米交渉を打開するために、両国の代表がホノルルあたりで緊急会見を開くことをハルに提案しています。

対してハルは「何にしても、今日のような日本指導者の言動を以てしては、米国がいかに妥協を欲してもとうていお話にならぬではないか。先決問題は日本の言論改善である」と答え、ハル・ノートに対する回答を求めたことが伊藤正徳著『軍閥興亡史〈3〉日米開戦に至るまで』に記されています。

- 誤報だった東条首相の米英駆逐演説 -

ハルが「今日のような日本指導者の言動」と指摘したのは、11月30日にアメリカの新聞の一面を飾った「東条首相の米英駆逐演説」のことです。

その演説とは、「長くアジア民族を搾取して飽くことを知らなかった張本人は、アメリカとイギリスである。今こそわれらは、人類の名誉と誇りのためにも、彼らを東亜の天地から徹底的に追放せねばならぬ」のような論調でした。

相手国を挑発するかのような勇ましい演説は、今日の北朝鮮で行われている演説に似ているかもしれません。

ハル・ノートの内容までは知らないものの、それがすでに手渡され、日本の回答を待っていることはアメリカ国民もわかっています。その最中、日本の首相が公然と「アメリカをアジアから追放する」との演説を行ったとなれば、日本が外交交渉を打ち切って戦争に訴えるつもりだと解釈するのは当然のことです。

そうなればアメリカが警戒態勢を強化することが予想されるだけに、真珠湾攻撃までは開戦の意思を悟られないようにと配慮した日本側の行動と矛盾しています。

実は東条は、この演説自体を行っていませんでした。その経過については次の通りです。

東条は何たる軽率を犯したのか? いな、東条は何も言つてはいなかったのだ。それはじつに、興亜同盟の事務局員が、起草して勝手に発表するという狂気乱行を仕出かした結果であったのだ。

興亜同盟は日華基本条約の一周年祝賀会を主催し、十一月三十日に日比谷公会堂でこれを開くことになっていた。該同盟の事務局は、当日臨席して祝辞を朗読する約束になっていた東条首相の祝辞を起草し、それを東条に見せる以前に新聞に発表してしまったのだ。あたかも祝賀会が日曜にあたるので、その前の晩に自分の作文を新聞にレリーズしたのだ。東条は全然それを知らなかったし、また都合があって当日の演説もしていない。しかし、世界はこれを本物と信じて、戦争のいよいよ迫ったことを痛感したのだ。アメリカ当局がこれを信じたのは、東京にいたグルー大使までが、その日の日記に「この演説はフェータル(=破滅をもたらすさま)だ」と痛嘆していた事実に徴しても、当然性を認めないわけには行かない。

軍閥興亡史〈3〉日米開戦に至るまで』伊藤正徳著(光文社)より引用

すでに開戦が決まった後の出来事でもあり、大勢に影響を与えたわけではないものの、マジック情報にしても米紙にしても、誤情報が最後まで日米交渉を阻んでいたと言えそうです。

もはや開戦に向けて、日本・アメリカ・イギリスともに引き返すことのできない段階へと自動的に進んでいました。

不沈戦艦と謳われたプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とするイギリス東洋艦隊は、すでに10月25日にはイベリア半島のジブラルタルを出港し、12月2日にシンガポールに到着しています。

- 三隻の小舟による「おとり作戦」 -

一方、アメリカは日本を挑発するための仕掛けを、この時期にさらに仕掛けていたことが後にわかっています。

真珠湾攻撃については「ルーズベルトらが事前に情報を掴んでいながらハワイへの警告を怠り、対日戦争を支持する世論を得るためにわざと日本の先制攻撃を許した」とする陰謀説が取り沙汰されています。

アメリカではこうした噂の真偽をたしかめるために真珠湾攻撃を調査する上下両院合同委員会が立ち上げられました。その際、12月2日にルーズベルトが次のような命令を出したことが判明しています。

● 開戦まであと6日 = 1941年12月2日

海軍作戦部長からアジア艦隊司令長官に伝達された命令は、

①「防備情報哨戒」のため、小型船舶三隻をチャーターし、②海軍士官による指揮と小型銃の搭載(一挺で可)=米国艦艇たる資格付与の最低要件、③最少員数の海軍兵員の他はフィリピン人乗員の雇い入れも可、④一隻は海南島と順化ユエの間、一隻はカムラン湾、セントジャックス岬間のインドシナ沿岸、もう一隻はカマウ岬沖に配置し、日本の動きを見張り報告する、⑤三隻のうち一隻は「イサベル」を用いることは承認されるが、他の海軍艦艇の使用は禁止

これを可能であれば二日以内に実行せよというのである(『現代史資料』34)。

日米開戦と情報戦』森山優著(講談社)より引用

これだけでは何を意図した命令なのか意味不明です。要するに、「イザベル」という約900トンのヨットを改造した船を三隻、太平洋に浮かべよとの命令です。

このルーズベルトの不可解な命令は、海軍の調査委員会でも問題とされました。この命令が、日本側に最初の一弾を撃たせるための「おとり作戦」ではないかと疑われたためです。

大西洋においてもアメリカは、ドイツに最初の一弾を撃たせるための挑発を繰り返していただけに、太平洋上で日本側の先制攻撃を誘う「おとり作戦」が展開されたとしても、なんの不思議もありません。

三隻の船を「おとりにする」という明確な指示が出ていない以上、あくまで推測の域を出ませんが、それ以外にこの不可解な命令に意味を見出すことができないことも事実です。

この命令に基づき実際に出港したのはイザベラ号のみでした。イザベラ号はまもなく日本軍の航空機によって発見されましたが、日本機は無視して飛び去っています。

ルーズベルトの「おとり作戦」は、空振りに終わったのです。

次回はいよいよ日米交渉の最終回です。米政府の発した天皇宛親電について追いかけながら、「開戦以外の選択肢があったのか」について探ります。

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