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    レキシジン 4章「大戦へのカウントダウン」 1941年 戦争回避のための日米交渉 第1部4章 日米交渉(34/36)真珠湾攻撃は卑怯なだまし討ちだったのか?

    第1部4章 日米交渉(34/36)真珠湾攻撃は卑怯なだまし討ちだったのか?

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    日米開戦までのカウントダウン

    野村大使・ハル国務長官・来栖特使
    [fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
    左から野村大使・ハル国務長官・来栖特使[/fontsize]

    ハル・ノートを受け取った日本では、思いもかけないアメリカの強硬姿勢に戸惑い、深い絶望感に苛まれました。一方、軍部はハル・ノートを「天佑」だと捉え、これを歓迎しました。

    この詳細については、前回の記事にて紹介しました。

    今回はハル・ノートはアメリカによる最後通牒だったのか否かについて、追いかけてみます。

    4-13. ハル・ノートの衝撃

    その5.ハル・ノートは最後通牒だったのか

    - 最後通牒か否かをめぐる見解 -

    日本はハル・ノートをアメリカの最後通牒と受け止めました。「最後通牒」の意味は、次の通りです。

    最後通牒とは、外交文書の一つで、国際交渉において最終的な要求を文書で提示することで交渉の終わりを示唆し、それを相手国が受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明することである。

    一般的に国家間の国際紛争の場合は、相手が受け入れない時は交渉の打ち切りは軍事的な実力行使の段階に移ることを意味するため、戦争を宣言する行為に準ずるものとなる。

    最後通牒:wikipediaより引用

    ハル・ノートが最後通牒であったか否かは、日米開戦の原因をたどる際の大きな鍵です。日本側が主張するようにハル・ノートがアメリカからの最後通牒であるならば、日本が開戦を選ぶよりなかったことには、やむを得ない面があります。

    しかし、アメリカ側はハル・ノートは最後通牒ではなかった、と主張しています。ハルは『ハル回顧録』にて次のように綴っています。

    「私が一九四一年十一月二十六日に野村、来栖両大使に手渡した提案(十ヵ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝はこの十一月二十六日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった」

    果たしてハル・ノートは最後通牒だったのでしょうか?

    見解は分かれるものの、一般的にハル・ノートはアメリカの公式な最後通牒ではないものの、最後通牒に近い文書として扱われています。

    先にも説明したように、ハル・ノート自体はアメリカ政府の公式な外交文書ではない体裁をとっています。あくまでハルの試案として日本に手渡された文書に過ぎません。

    また、ハル・ノートに「最後通牒」という言葉もなければ、「日本が受け入れなければ交渉を打ち切る」との文言もありません。

    これらの事実から、ハル・ノートを形式上は最後通牒と呼べないことは明らかです。

    しかし、上記のハルのような見解は今日では国際的なコンセンサスを得られていません。

    なぜなら、ハル・ノートを日本に渡してからのアメリカ政府内の動きや数々の証言から、ルーズベルトやハルらがハル・ノートを日本に対する最後通牒と認識していたことが、明らかとなっているからです。

    ことに有名なのは、ハルがハル・ノートを野村・来栖に手交した翌日の11月27日、スティムソン陸軍長官からの電話に「私はそれ〔日米交渉〕から手を引いた。いまやそれは君とノックス(海軍長官)との手中、つまり陸海軍の手中にある」と述べたことです。

    この発言からは、ハルがハル・ノートを最後通牒と考えていたことがうかがえます。

    もともとハルはマジック情報を目にすることにより、日本が期限として設定していた12月1日直前になってハル・ノートを受け取った日本が、どのような行動に出てくるのか、十分に予想できたはずです。常識的に見て、ルーズベルトやハルがそのことに思い至らないとは考えられません。

    現に、11月28日に行われた戦争作戦会議にて、ハルはハル・ノートについて「日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」と述べています。

    合意が得られなければ戦争になることは、もはや疑う余地がありません。

    アメリカの関心はもはや、日米戦争における大義名分を、いかにして獲得するのかに向いていました。

    11月25日には「日本にいかにして最初の一弾を撃たせるか」をめぐる会議がもたれていたことは先述の通りです。

    スティムソンは後日、次のように証言しています。

    「日本側に最初の一弾を撃たせることは危険ではあるが、米国国民の完全な支持をえるためには、日本軍自身に最初に攻撃させて、どちらが侵略者であるかについて誰も心のなかで疑う余地のないようにすることが望ましいことを、われわれは十分に承知していた」

    つまり、この時点でアメリカは従来までの方針としてきた時間稼ぎを打ち捨てて日本との開戦を決意し、米国民の支持を得るために侵略者は日本であることを印象づけるための工作に走ったことを意味します。

    - ハル・ノートの存在は米国民に知らされていなかった -

    対日戦争を支持する世論を構築するために、最後通牒に匹敵するハル・ノートを日本に手渡したことについては、米国民には秘密にされました。

    ニューヨーク27日発の同盟電によれば「26日夕刻、ハル国務長官が野村、来栖両大使と会見、文書を手交してからは急角度を以って悲観論が圧倒的となり、27日の朝刊各紙は『日米交渉がついに最後の段階に達し、日米関係が和戦いずれかに決定される時が来た』と大々的に報じている」とありますが、ハル・ノートの内容やそれが最後通牒としての性格を帯びていることについては、マスコミにも知らされていません。

    当時の米紙のほとんどは悲観論で染まっていましたが、遠い極東に位置する日本に対する米国民の関心は低く、日米開戦の危険性はそれほど共有されていませんでした。

    ところが12月8日、突然ハワイの真珠湾が日本軍の攻撃を受けることになります。日米交渉を続けていたはずの日本が手のひらを返して突如、奇襲に打って出るとは、米国民のまったく予期していないことでした。真珠湾攻撃によって甚大な被害が出たこともあり、米国民はこれを卑怯なだまし討ちであるとして一斉に非難し、「リメンバー・パールハーバー」と叫び拳を振り上げました。

    かくして日本との戦争に反対していたアメリカの世論は、一瞬にして戦争支持へと塗り替えられることになります。ルーズベルト政権が待ち望んでいた日本との戦争が、ついに実現したのです。

    ただし、ハル・ノートについて知らされていない米国民にとって日本の真珠湾攻撃は卑怯なだまし討ちであったとしても、ルーズベルト政権や軍部が同じ主張をすることには無理があります。

    - 米軍に発令された最後的警戒命令 -

    ハル・ノートが最後通牒に等しく、日本からの先制攻撃を明らかに挑発していることは、ルーズベルトやハル、そして米統帥部は十分に認識していました。

    ハル・ノートの内容はアメリカ政府の一部と統帥部に知らされたのみで、他には伏せられています。

    ハル・ノートが日本に手渡されたことを知った米陸海軍統帥部は、27日に「現在の米日交渉が合意なしで終わってしまえば、日本からの攻撃がある」との覚書をルーズベルトに出しています。

    そこには明らかにハル・ノートに対する非難が込められていました。

    ハルは『回顧録』にて「マーシャル将軍とスターク提督は大統領に覚書を出した。その写しは私にも届いている。その中で彼らはまだ時間が欲しいと訴えていた。増援部隊がフィリピンに向かっている最中であった。二人は、日本がアメリカ、英国あるいはオランダを攻撃するか直接的脅威となる場合にのみ反撃を検討するよう要請した。」と綴っています。

    即時開戦に向けて舵を切ったルーズベルトとハルとは異なり、米軍部はなおも時間稼ぎを求めていたことがわかります。それでも最後通牒同然のハル・ノートを手渡したとなると、日本からの先制攻撃に備えるよりありません。

    27日には陸・海軍最高首脳部が開かれ、その上で警戒命令・戦争警告を出すことが決定されました。

    同日、マーシャル陸軍参謀総長からフィリピン・ハワイ・カリビア・サンフランシスコの陸軍司令官に対して次の「最後的警戒命令」が出されました。

    「対日交渉は、日本が再び会談継続を提案してくる可能性だけを残して、すべての実際的な目的を終えた。日本の将来の行動は予断できないが敵対行動はいつおこるかわからない。もし敵対行為が避け得ないなら、アメリカは、日本が最初の公然たる行為を犯すことを望んでいる。日本が敵対行動をとる前には、偵察その他の貴下が必要と思う手段をとれ。もし戦争が勃発すればレインボー計画・5に規定された任務を実行すべきである。

    日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編集(朝日新聞社)より引用

    ジョージ・マーシャル
    wikipedia:ジョージ・マーシャル より引用
    【 人物紹介 – ジョージ・マーシャル 】1880年 – 1959年
    アメリカの軍人・政治家。最終階級は元帥。第1次大戦時にヨーロッパ派遣第一軍参謀長・参謀本部作戦部長を務める。第2次大戦の勃発により、対日戦争計画推進に積極的に関わり、陸軍参謀総長に就任。ドイツに止めを刺すためのヨーロッパ侵攻作戦の作戦計画を指導した。終戦間際、マッカーサーやニミッツとは異なり、日本本土侵攻やソビエト連邦参戦の必要性を唱えた。戦後は軍を退き、政治家に転身。中国における全権特使に任命されるも、蒋介石が内戦を起こしたため、本国に召喚された。1947年、国務長官に就任。「マーシャル・プラン」として知られるヨーロッパ復興計画の任に当たった。その後、アメリカ赤十字社総裁・国防長官を経て引退。マーシャル・プランの立案・実行により、1953年にはノーベル平和賞を受賞。享年78。

    また、スターク海軍作戦部長は太平洋艦隊とアジア艦隊の司令長官に対して次の「戦争警告」を通報しています。

    「本電報をもって戦争警告とみなすべし。日米交渉はすでに終り、日本の侵略的行動がこの数日以内に予期される。日本陸軍部隊の人員数、装備と海軍機動部隊の編成から判断すれば、日本軍はフィリピン、タイ、またはクラ地域あるいはボルネオにたいして陸海共同の遠征作戦を行なう意図をもっているように思われる。作戦計画第四六号(WPPac-46)によって与えられた任務を遂行するために適切な防衛展開行動を実施すべし。海軍地区当局および陸軍当局に、この情報を伝達すベし。陸軍省も同様な警告を発している。海軍省は英国にも通報した。本国各地区、グアム、サモアは妨害行動にたいする必要措置をとった。」

    日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編集(朝日新聞社)より引用

    さらに上記の書には参謀本部諜報部からハワイとカリビアの陸軍諜報部に「対日交渉は実際上行詰りに来ている。その結果として戦争がおこるであろう。破壊活動が予期される」との情報が送られたことも記されています。

    それらは、これまでアメリカが発してきた警戒命令や戦争命令とは質が異なり、明らかな切迫感を伴っています。

    これらの伝達された情報からは、アメリカがハル・ノートをもって日米交渉を終えたと考えていること、日本がハル・ノートを受諾する可能性は低く、まもなく日本から先制攻撃が行われる可能性が高いと見ていたことがわかります。アメリカが日本の武力行使を今かと待ち構えていたことは、明らかといえるでしょう。

    つまり、真珠湾攻撃を卑怯なだまし討ちと捉えたのは、最後通牒に等しいハル・ノートの存在や日米交渉において日本側が大きな譲歩を見せていたことを知らない米国民や米議会であって、ハル・ノートのことを知っていたルーズベルトやハル、米統帥部にとっては、けして不意打ちではなかった、と言うことです。

    - ハル・ノートと戦争責任 -

    ハル・ノートについては今日までさまざまな議論が為されていますが、その評価は総じて低めです。ルーズベルトやハルがどれだけ最後通牒ではないと言い張ったところで、ハル・ノートの内容や日本に手渡されるまでの過程のなかに、日本側がそれを最後通牒と受け取らざるをえないようなアメリカ側の作為が見られることは事実です。

    ハル・ノートがこれまでの日米交渉のすべてを否定するような内容になってしまった最大の原因は、暫定協定案が放棄されたことにあります。

    もともとハル・ノートは暫定協定案とセットで日本側に手渡されることになっていました。したがってハル・ノートの内容は、暫定協定案があることを前提に作成されています。

    当初の予定通りセットで日本に手渡されていたならば、ハル・ノートが暫定案の捕捉としてアメリカとしての原則を並べたものに過ぎないことが日本側にもわかります。すなわち、ハル・ノートの冒頭に記されている「一時的かつ拘束力なし」の文言を、日本側も素直に受け入れることができたはずです。

    ハル・ノートにある各項目をアメリカ側の単なる要望と受け止めるのか、それとも交渉妥結のための条件と受け止めるのかによって、ハル・ノートの位置づけはまったく違ってきます。

    アメリカ歴史学会会長のチャールズ・ビアード博士は著書『ルーズベルトの責任』のなかでハル・ノートについて「1900年以来、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても先例をみない程強硬な要求であり、どんなに極端な帝国主義者であろうと、こうした方針を日本との外交政策に採用しなかった」と綴っています。

    またインドのパール判事は、ハルノートを「外交上の暴挙」であったと指摘しています。

    ハル・ノートが外交文書の常識にそぐわないほど日本にとって過酷な内容となっているのは、アメリカがハル・ノートを交渉妥結のための条件としてではなく、あくまで暫定協定案を前提に、即時ではなく将来的なアメリカとしての要望を記したためと考えられます。

    ところが日本に手交される前日になって突然、暫定協定案が破棄され、ハル・ノートのみが日本側に提示されたのです。

    日本側乙案に対するアメリカの回答を待っていた日本にハル・ノートのみが届けば、それがアメリカの正式な対案であり、交渉妥結のための条件が羅列されていると受け止めるのは極めて自然です。日本にとってハル・ノートは、アメリカが突きつけてきた最後通牒以外のなにものでもありませんでした。

    もし日本側がハル・ノートをもっと冷静に受け止め、感情的ではなく理性的に対処できていたならば、開戦とは異なる結果となっていたかもしれません。

    しかし、開戦か避戦かの瀬戸際に立たされていた当時の日本に、それを求めることはあまりに酷です。

    いずれにせよハル・ノートのもつ最後通牒としての性質が、日本の開戦責任の免罪符となっていることはたしかです。

    ハル・ノートをめぐるアメリカ側の動きには不透明な部分が多く、アメリカ側の戦争責任を指弾する声も日米ともに多々あります。

    日米交渉の当初の目的がアメリカが戦争準備を整えるまでの時間稼ぎであったことはハル自身も認めるところですが、日米交渉が煮詰まるとともに、日本に最初の一弾を撃たせるために日本を挑発することこそが、ルーズベルトらの意図するところになっていました。

    アメリカの魂胆を見抜き、先制攻撃を自重したドイツと異なり、日本はアメリカの挑発に乗せられ、真珠湾攻撃を敢行することになったのです。

    かつて東久邇宮がフランスの首相クレマンソーとペタン元帥から受けた忠告「将来米国は日本の方から戦争を仕掛けるような手を打ってくるに違いないが、日本が短気を起こして戦争を始めたら、日本は底力のある米国に必ず負ける。だから米国の手に乗って戦争しないように我慢すべきだ」が、現実になったと言えます。

    もちろん、いかなる事情があったとしても開戦を選んだのは日本であり、日本の戦争責任は免れません。しかし、アメリカを一方的な被害者として位置づけることも間違っています。

    イギリスのオリバー・リトルトン通産相は、次の言葉を残しています。

    「米国が戦争に追い込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国があまりひどく日本を挑発したので、日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ」

    このような見解も数多く寄せられています。

    日本を挑発する最後の仕上げとしての役割をハル・ノートが果たしたことは、歴史的な事実です。戦争責任の所在をめぐり、ハル・ノートは今も多くの示唆を後世に生きる私たちに投げかけています。

    ハル・ノートによって和平への道を完全に閉ざされた日本は、12月8日の日米開戦へ向けて歩み始めました。

    しかし、それでもなお戦争回避に向けた努力が為されていました。この続きは次回にて紹介します。

    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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