#91 開戦まであと11日 大統領との最後の会談

「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

ハル・ノートの中身については前回の記事にて紹介しました。今回はハル・ノートを受け取った際の日本側の反応を追いかけてみます。そこにあったのは、深い絶望でした。

4-13. ハル・ノートの衝撃

その3.大統領との最後の会談

野村にしても来栖にしても、ハル・ノートは青天の霹靂(へきれき)でした。両大使はハルから乙案に対する回答があるものとばかり考えていたからです。

ところがハルが手渡してきたものは、日本の事情を一切顧みることのない原理原則の押しつけでした。日本が曲がりなりにも譲歩の姿勢を見せていたにもかかわらず、アメリカは一切の譲歩を拒否したばかりか、さらに一方的に条件をつり上げてきたのです。

これでは東京に取り次ぐことさえできないと、両大使は愕然(がくぜん)と色を失いました。来栖は「本当にこれがわが国の暫定協定締結の望みに対する回答なのか」と念を押しています。

対してハルは中国を見殺しにするなと言う米国内の強い世論に配慮せざるを得なかったのだと、述べています。また、日本側要人の非平和的言論を背景として生まれたものだとも言っています。

さらにハルは言い訳がましく、無差別通商主義に関しては「原則は原則として必ずしも急速実現を予想しおる次第にあらず」、中国と仏印からの撤兵については「要するに交渉に依る次第にして必ずしも即時実現を主張しおる次第にあらず」と弁明しています。

いずれも即時実現を主張したわけではないと断っています。ハルが会談の最後に「要するに一案なり」と述べていることからも、そのことを日本に伝えようと意識したことが読みとれます。

対して来栖は「これは交渉終了を意味するものにほかならない」と主張しています。

素直にハル・ノートを読むならば、例外なしに日本に実現を迫っているようにしか解釈できないことも事実です。日本はハル・ノートを、日米交渉で合意に至るためのアメリカ側の条件と受け止めました。

これまでの日米交渉の経過からして、日本がそのように受け止めることは極めて自然です。

野村は以前ルーズベルトが「友人の間には最後の言葉というものはない」と話したことを引き合いに出し、大統領との会談を要請しました。

ハルは明らかに乗り気でない素振りを見せたものの、翌27日、ルーズベルト大統領・ハルと野村・来栖との最後の会談が行われています。

● 開戦まであと11日 = 1941年11月27日

野村らはハル・ノートが日本政府を失望させたことを伝えると、ルーズベルトは「自分も実は失望しているが、米国は本交渉中に南部仏印進駐で第一回の煮湯を飲まされた。最近の情報によると、第二回目の煮湯を飲まされそうな懸念がある」と応えています。

野村が暫定案が破棄された理由について質問すると、「この7ヶ月の平和交渉中に日本の指導者より何ら平和的言辞を聞くことがなかったのは遺憾であり、暫定協定も両国の根本的主義方針が一致しなければ、結局無駄になるだろう」と述べました。

さらにハルも口を挟み、「日本軍が大兵を仏印に増駐し、三国同盟をかざしながら米国に石油の供給を求めるのは、到底米国民衆を納得させ難く、われわれが平和を論議しているのに、日本の政治家よりそれを促進する言葉がなく、もっぱら武力による新秩序建設を主張しているのでは、とても暫定協定を結ぶ状況ではない」と苦言を呈しています。

大東亜共栄圏は武力支配のカモフラージュに過ぎない、ともハルは述べています。

会談は平行線をたどったまま、空しく終わりました。両国の主張はどこまで行っても噛み合いません。これが開戦前の最後の大統領会談でした。

その4.ハル・ノートを日本はどう受け止めたのか

ハル・ノートが東京に伝えられたのは、11月27日の正午前後のことでした。その日の午後、直ちに連絡会議が開催され、ハル・ノート全文が伝えられています。

日本側の提出した乙案はすべて無視され、これまでの日米交渉をないがしろに一方的にアメリカ側の原理原則を声高に叫ぶハル・ノートを目にした出席者は、一様に大きな衝撃を受けました。

アメリカが新たな暫定案を用意していることは、日本側でもつかんでいました。暫定案の阻止を目論む中国が情報をリークしたため、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙に暫定案の概要が掲載されたこともあったからです。

避戦派はアメリカの暫定案に戦争回避のわずかな望みをかけていました。

ところが心待ちにしていたアメリカ側の回答に暫定案は含まれていませんでした。日本側のすべての希望をくじくハル・ノートのみが届けられたのです。

連絡会議ではハル・ノートを次のように結論づけました。

「一同は米国案の過酷なる内容に啞然(あぜん)とし、これは日本に対する最後通牒であり、日本が受諾出来ないことを知って通知してきたもので、すでに対日戦争の決意をしているもののごとくである」と……。

ハル・ノートは避戦派と主戦派に分かれていた日本の政策担当者の意思を、開戦へと一気に結束させました。

避戦派を牽引していた東郷外相さえも、次のように述べています。

「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた。その内容の激しさには少なからず驚かされた。結局長年に渉る日本の犠牲を全然無視し、極東における大国の地位を捨てよ。これは国家的な自殺に等しい。最早や立ち上がる外ないということであった」

軍部にあって避戦に尽力していた武藤軍務局長も著書『比島から巣鴨へ』のなかで、「十一月二十六日附のハル長官の書面が到着した。これは日本にとりては交渉打ち切りの通告であった。事ここに至っては日本は開戦を決意する外なかった。」と綴っています。

東郷にしても武藤にしても、これまで避戦に向けて日米交渉の継続を強く主張していた面々が、ハル・ノートによって交渉継続を断念するに至ったのです。

東郷らがそのように思い至ったのは、ハル・ノートの本質が日本に無条件降伏を求めるも同然と映ったからです。折衝を重ねることで日米交渉が煮詰まった今になって無条件降伏を迫られたのでは、アメリカへの不信感を拭えるはずもありません。

アメリカの要望に完全に適うことはないまでも、日本はこれまで譲歩に譲歩を重ね、歩み寄る姿勢を見せてきました。ところが日本側の譲歩が考慮されることはまったくなく、アメリカは最後に日米交渉が始まった頃よりも遙かにハードルが高い要求を突きつけてきたのです。

これでは日本側が、これまでの日米交渉はアメリカが戦争準備を整えるための時間稼ぎに過ぎなかったのだと考えるのも、やむを得ない面があります。

東郷は著書『時代の一面』にて「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」と綴っています。

また武藤も先の著書において「日本は辛棒しながら譲歩して来て、最後に打切りとなる。そこで皆一様に憤慨する。反対のしようがないのだ。」と、ついに匙を投げた心情を述べています。

そこにあったものは、ひと言で表すならば「絶望感」です。

連絡会議では、ハル・ノートをアメリカの最後通牒と見なすこと、その条件を日本が受諾できないことが確認されました。それは、日米交渉が失敗に終わったことを意味しました。

これにより、11月5日の御前会議での決議に基づき、いよいよ開戦に至ることが全員一致で決定されたのです。

なお、11月26日の午前6時、日本の連合艦隊機動部隊は真珠湾攻撃を行うために、択捉(えとろふ)島単冠(ひとかっぷ)湾から出撃しました。

時折ネット上にて、日本はハル・ノートが届く前にすでに真珠湾に向けて出撃しているのだから、ハル・ノートが日米開戦の決め手になったとの主張は嘘だ、のような言説を見かけますが、これは的外れです。

11月5日の決議に基づき、日本が開戦準備に入っていたことはたしかですが、12月1日午前零時までに日米交渉が妥結すれば、連合艦隊機動部隊は引き返す手はずになっていました。

出撃がすぐに開戦を意味していたわけではありません。

- 軍部の反応 -

ハル・ノートは避戦派を絶望の淵に落としましたが、陸軍を中心とする主戦派には逆に歓迎されました。

ことに参謀本部の田中作戦部長が次のようにハル・ノートを「天佑」と表現した下りは、よく引き合いに出されます。

「ハル・ノートが日本のためには、あたかも好機に到来したことは、むしろ天佑であるといえる。このような挑戦的な文書をつきつけられては、東郷(外務)、賀屋(大蔵)の両相も、もはや非戦的態度を固辞し得なくなるだろう。これで国論も一致するであろう。」

27日の『機密戦争日誌』には、次のように綴られています。

米の回答全く高圧的なり、而(しか)も意図極めて明確、九国条約の再確認是なり
対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし
交渉は勿論(もちろん)決裂なり
之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり目出度(めでた)く、之れ天佑とも云うべし
之に依り国民の腹も堅まるべし、国論も一致し易かるべし

大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』軍事史学会編集(錦正社)より引用

参謀本部は開戦へのサイが投げられることを心待ちにしていました。いみじくもハル・ノートこそが、その「サイ」の役割を果たしたのです。

陸軍がもっとも恐れていたのは、日本の譲歩に対してアメリカも譲歩で応えてくることでした。アメリカが日米交渉の妥結に向けて少しでも前向きな姿勢を見せる限り、避戦派による交渉継続の主張が続くと見られていました。

そうなると国内は避戦派と主戦派で分裂するよりなく、深刻な対立が懸念されました。

11月5日の決議がある以上、期限までに日米交渉が妥結しなければ開戦に至ることが必然ではあったものの、9月26日の御前会議が白紙に戻されたように 11月5日の決議もまた、ひっくり返る可能性が残されていました。

ことにアメリカが譲歩を小出しにしてくるとなると避戦派による抵抗が予想されるだけに、開戦に踏み切ることができないまま、戦機が永遠に失われる恐れがあったのです。

そのような状況下で舞い込んだハル・ノートこそは、参謀本部にとってまさに天佑でした。無条件降伏を迫られたのでは、もはや拒絶して戦うよりありません。

ハル・ノートは日本を挙国一致にて戦うより他に逃げ道がない状況へと、ものの見事に導いたのです。

ところで、ハル・ノートをめぐっては大きな問題が残されています。それは、ハル・ノートはアメリカによる最後通牒だったのか否かです。

その見解によって、日米開戦の戦争責任は大きく左右されることになります。この続きは次回にて紹介します。

ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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