第1部4章 日米交渉(32/36)戦争回避の希望の光を吹き飛ばしたハル・ノートの衝撃

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

米側暫定協定案が突如、放棄された背景について、前回の記事にて紹介しました。

今回より、日米交渉の最終局面となる「ハル・ノート」について追いかけていきます。

4-13. ハル・ノートの衝撃

11月26日に行われた野村・来栖-ハル会談において、ハルは日本側の最終打開案である乙案を拒否するとのアメリカの正式な回答を伝え、基礎協定案のみを日本側に手渡しました。

日本ではこの基礎協定案を「ハル・ノート」と呼んでいます。

● 開戦まであと12日 = 1941年11月26日

「ハル・ノート」は世界のさまざまな外交史のなかでも、際立って悪評高い外交文書として位置づけられています。

「ハル・ノート」がどれだけ過酷な要求であったかについては、東京裁判にて全判事のなかで唯一無罪判決を主張したパール判事の次の言葉が有名です。

「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう」

モナコ公国とルクセンブルク大公国は、単に弱小国のひとつとしてあげられているに過ぎません。そのような弱小国であってもハル・ノートを突きつけられれば、戦う道を選ぶよりなかったと述べています。

この例えは実はパール判事が考えたわけではなく、アメリカの歴史家アルバート・ノックの『回想録』にある言葉を引用したものです。

ラダ・ビノード・パール
wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
【 人物紹介 – ラダ・ビノード・パール 】1886年 – 1967年
インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国(インド)が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

ニュアンスの違いはあれ、「ハル・ノート」が外交の常識からは考えられないほど過酷な内容であったことは、多くの研究者によって指摘されています。アメリカが日本を戦争に追い込むために「ハル・ノート」を手渡したとする論も、日米双方で取り沙汰されています。

「ハル・ノート」によって日米交渉の妥結は絶望的となり、日本は11月5日の御前会議にて決議された国策に基づき、対米開戦を決行するに至りました。

これまでの日米交渉の経過を見れば明らかなように、たとえ「ハル・ノート」が提示されていなかったとしても、日本が対米開戦に踏み切る流れであったことはたしかです。

しかし、「ハル・ノート」がなければ東郷外相をはじめとする避戦派の抵抗する余地が、まだ残されていたことも否定できません。

「ハル・ノート」は日米開戦への最後の一押しとなりました。戦争を回避する綾が残されていたのは、「ハル・ノート」が手渡される前までのことです。

ここでは「ハル・ノート」の内容を確認しながら、日本に広がった衝撃の度合いについて追いかけてみます。

その1. ハル・ノートとは

ハル・ノートの手交は、閣議を通すことも米議会の承認を得ることもなければ、陸海軍の長官に知らされることも関係各国との協議もなく、唐突に為されました。

ハル・ノートは交渉の経過を簡単にまとめた口頭の文書と「合衆国及日本国間協定の基礎概略」から構成されています。通常、ハル・ノートといえば後半の「合衆国及日本国間協定の基礎概略」を指します。

その冒頭には「厳秘 一時的かつ拘束力なし」と記され、第一項に「政策に関する相互宣言案」としてハル四原則が並べられていました。

ハル四原則は以下の通りです。

一、一切の国家の領土保全と主権の不可侵
二、他国の内政への不関与
三、通商の機会均等
四、紛争の防止および平和的解決等のための国際協力および国際調停の遵拠

このハル四原則を日米両国が積極的に支持し、実際に適用することを宣言すると記されています。

なお、「厳秘 一時的かつ拘束力なし」と断り書きが為されているのは、この提案がアメリカ政府の正式な提案ではないことを明らかにするためです。

「ノート」という言葉からもわかるように、実は「ハル・ノート」はハル国務長官の覚書に等しく、アメリカ政府の正式な提案ではない、とされています。

しかし、当時の状況からして「ハル・ノート」をアメリカ政府の回答と日本が受け取ったことは当然と言えるでしょう。国際的にも、そのように解釈されています。

次に第二項として、ハル四原則に沿って両国政府がとるべき具体的な措置として十項目が羅列されています。

なお「ハル・ノート」の呼称は日本では一般的ですが、アメリカではそのような呼び方をしていません。アメリカでは「テンポインツ(TenPoints)」と呼ばれています。

第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10.本協定内容の両国による推進

ハル・ノートより引用

ハル・ノートの文面だけを追いかけてみても、その内容が日本にとってどれだけ過酷であったのか、よくわからないかもしれません。

日米交渉に携わっていた日本側関係者のことごとくを絶望に淵に突き落としたのは、第三項と四項及び第九項の内容です。

第三項では中国と仏印からの日本の軍と警察の撤退を、一切の例外なく求めています。さらに第四項では重慶の蒋介石政権以外の中国政府が否認されています。

この何が問題なのかと言えば、これまでの日米交渉で積み重ねられてきた合意がすべてリセットされていることです。

「合意」という言葉には語弊があるかもしれませんが、少なくとも日本側は日米交渉を通してアメリカの要望に適うように、回を重ねるごとにできるだけの譲歩を見せてきました。

中国からの撤兵にしても、当初は日中戦争で亡くなった英霊のためにも撤兵はできないと主張していたものを、北支・蒙疆・海南島に25年間兵力を駐留させるが、それ以外は全面撤兵すると譲歩しています。

仏印からの撤兵にも条件付きではあるものの、応じると伝えています。

日米交渉を通して日本は譲るべきところは譲り、アメリカの理解を少しずつ得ているものと受け取っていました。

実際、6月21日付米国案では「共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする」との文言が入っています。そのことはアメリカが原則論のみにとらわれるのではなく、日本の立場に理解を示していたことを意味しています。

ところがアメリカは突然手のひらを返したかのように、日本側の要望をすべて無視した上で中国と仏印からの全面撤兵を、一切の例外なく求めてきたのです。

第四項に関しては、日本の支持する汪兆銘政府にしても満州国にしても、これまでアメリカが承認してこなかったことは事実です。しかし、これまでの日米交渉においてアメリカは、あえて未承認であることを明文化していませんでした。そこには日本に対する配慮があったと考えられます。

ところがハル・ノートにおいて唐突に、蒋介石政権以外は認めないと明文化し、日本の承諾を迫ってきました。

第九項で三国同盟の実質的な廃棄を求めていることも、これまでの日米交渉で重ねてきた日本側の要望を一切考慮していないことがわかります。

国家間の交渉であれ、ビジネス上の交渉であれ、はじめは自分に有利になる条件を掲げるものの、交渉の過程を通して相手の事情を互いに汲み取り、譲るべきところは譲り合い、双方が納得できる条件で合意に至るのが普通です。

しかし、ハル・ノートはこうした「交渉」の常道を完全に逸脱していました。

附属のオーラルステートメントによると、ハル・ノートは「太平洋全地域に渡る広汎ながら簡単なる解決の一案」であるとし、「6月21日付け米国案と9月25日付け日本案の懸隔を調整」と説明されています。

しかれど、その内容は「米国案と日本案の懸隔を調整」の文言とは程遠いものでした。日本の要望をすべて却下しているにもかかわらず、アメリカの要望ばかりが、より過激さを増しているからです。

つまり、ハル・ノートが問題なのは、これまで日本側が譲歩を重ねてきた日米交渉の経過を無視して、アメリカが一方的に突然、条件をつり上げていることにあります。

これでは今まで何のために日米交渉を続けてきたのかわかりません。

ハル・ノートは日本に残されていた戦争回避の希望の光を、ものの見事に吹き飛ばしたのです。

その2.ハル・ノートは満州を否認していたか

- 日本側の見解 -

ハル・ノートにおける日米の認識でもっとも異なるのは、ハル・ノートが満州国を否認していたのかどうかです。

全文を見れば明らかなように、ハル・ノートには「満州」という言葉が一度も出てきません。

しかし、日本側は「ハル・ノートは満州からの日本軍と警察の無条件全面撤兵を求めている」と受け止めました。

なぜなら、ハル・ノートに出てくる「支那(英文では CHINA )という単語には、満州が含まれていると日本側は解釈したからです。

ハル・ノートの第三項には「3.日本の支那及び仏印からの全面撤兵」とありますが、この「支那」に満州が含まれていると解すことで、全面撤兵の対象は満州にまで広がります。

つまり日本にとってハル・ノートは、満州国の否認を意味していたことになります。満州は当時の日本にとっての生命線でした。その満州を失うことは、日本にとって耐えがたいことでした。

戦後の東京裁判において、東条英機はハル・ノートには次の4つの難問が含まれていたと指摘しています。それは、
1.日本陸海軍はいうにおよばず警察も支那全土(満州を含む)及び仏印より無条件に撤兵すること、
2.満州政府の否認、
3.南京国民政府の否認、
4.三国同盟の死文化、
の4つです。

陸軍参謀本部の田中作戦部長も著書のなかで、次のように述べています。

ハル・ノートは、租界、居留地、其の他の在支諸権益の放棄を提議した。これは日本の北
支・内蒙・満州の建設の一切を否定する。ハル・ノートはアメリカの傀儡化した重慶政権のみを支持し、満州国政府、南京政府の存在を否定してきた。ハル・ノー卜は全支(満州を含む)と全仏印から撤兵せよ、警察もさげよと言っている。南京政府も、満州国政府も否認せよと命じた。

こうなっては、満州事変以来十年の日本の経営は水の泡となる。その結果新秩序は愚か、日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する。

田中作戦部長の証言』田中新一著(芙蓉書房)より引用

また、東郷外相にしても、戦後に「第四項にて満州国及び南京政府を見捨てる」ことになるとの手記を残していることから、「支那」のなかに「満州」が含まれると解していたことがわかります。

軍部ばかりでなく、東郷外相をはじめとする当時の日本の政策決定者たちは、当然のように「支那」のなかに満州が含まれていると解釈したのです。

日本がハル・ノートに絶望した理由のひとつに、満州国の否認と満州からの全面撤退の問題があったことは間違いありません。

- アメリカの見解 -

一方、アメリカでは一般的に「ハル・ノートは満州からの撤退も満州国の否認も意味していない」との見解をとっています。

『真珠湾攻撃』を著したアメリカの作家ジョン・トーランドは、その書のなかで次のように述べています。

「じつはハル・ノートの内容については、日米間に悲劇的な誤解があった。ハルの言う『シナ』には満州は含まれず、だいいち彼は最初から日本による満州国の放棄など考えていなかった。ハル・ノー卜はこの点をもっと明瞭にしておくべきであった。満州国はそのままだとさえわかれば、日本側もあれほど絶対に呑めぬと考えはしなかったことだろう」

トーランドの見解は、アメリカの一般的な認識として定着しています。

しかし、トーランドが指摘するように、ハル・ノートで使われている「支那」に満州が含まれているか否かをめぐる日米の認識の差は、果たして単なる誤解と言えるのでしょうか?

- なぜ確認しなかったのか -

たしかにハル・ノートが満州についてなんらの要求もしていないのであれば、交渉の綾がまだ残されていたかもしれません。少なくとも「開戦やむなし」で意思統一されるまでに、まだまだ紆余(うよ)曲折があっただろうことは否定できません。

ところが日本側は、これほど重要なことをアメリカ側に問い質してさえいません。ハル・ノートが野村・来栖に渡された際にも、両大使はハルに質問をぶつけていません。

後に12月1日の御前会議において、原枢密院議長が東郷外相に対して「支那という字句の中には満州国を含む意味ありや否や、此のことを両大使はたしかめられたかどうか、両大使はいかに了解しておられるかをうかがいたい」との質問がなされています。

対して東郷外相は「支那に満州を含むや否やにつきましては、もともと四月十六日米提案のなかに満州国を承認するということがありますので、支那にはこれを含まぬわけでありますが、話が今度の様に逆転して重慶政権を唯一の政権と認めて在政権を潰すという様に進んできたことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思います」と、応えています。

どう見ても質問に対する回答にはなっていませんが、それ以上の追及は為されていません。

「四月十六日米提案」とは、アメリカから為された日米諒解案のことです。日米諒解案では、アメリカは「支那」のなかに満州を含めていないことを明らかにしていました。ただし、日米諒解案はアメリカの正式な提案ではなく、これからの交渉の叩き台に過ぎないものです。

したがって、アメリカが公式に満州国を承認したわけではありません。

アメリカは、これまで一貫して満州国を承認しない態度をとり続けてきました。そのアメリカが支那の政府は蒋介石政権のみと掲げるからには、満州国の否認が改めて強調されたのだと東郷外相は受け取ったことになります。曖昧さは残るものの、それが当時の日本の一般的な解釈でした。

ハル・ノートの手交を受けて開かれた連絡会議においても御前会議においても、ハル・ノートが満州を対象にしているかどうかの議論は為されていません。日本側は当然のように、ハル・ノートの「支那」には満州が含まれている、と受け取ったのです。

ここまでたどってみると、ハル・ノートと満州についての日本側の見解は、確認不足による勘違いと見なされてもやむを得ない面があります。

ところが、ハル・ノートの生成過程を追いかけてみると、そうとも言えない一面があることが浮かび上がってきます。

- 一夜にして消えた「満州」についての記述 -

ハル・ノートの原案となったのは11月17日に提出されたモーゲンソー案です。モーゲンソー財務長官の下でこの案を実際に作成したのは、財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトです。

ヘンリー・モーゲンソウ
wikipedia:ヘンリー・モーゲンソウ より引用
【 人物紹介 – ヘンリー・モーゲンソウ 】1891年 – 1967年
アメリカの政治家。ユダヤ系の家庭に生まれ、隣人であったルーズベルトのニューヨーク市長財政中には同市の農業行政を担当。ルーズベルトが大統領に就任すると連邦農業審議会議長を経て財務長官に就任。保守的で均衡財政に固執する財政を行った。対日強硬論者としても知られる。のちに「モーゲンソー計画」と呼ばれる戦後のドイツの将来を決定する計画をルーズベルトに提出した。戦後はIMF、世界銀行の設立に尽力。

ホワイトが作成したモーゲンソー案をもとに修正が加えられ、22日に「日米協定の基礎提案の概要」が作られています。そこにはアメリカ側のとるべき措置として8項目、日本側のとるべき措置として6項目が掲げられていました。

その日本側のとるべき措置のなかには「日本軍の支那(満州を除く)からのすべての陸海空軍及び警察を撤収すること」との条項があります。

「支那」の説明として括弧付きで「満州を除く」の句が、あえて挿入されていることは、注目に値します。

つまり、22日案では中国からの撤退に満州は明らかに含まれていなかったのです。

その後、24日には22日案がさらに修正され、日米両国がとるべき措置として11項目にまとめられました。その第3項には日本軍の撤兵について、やはり「満州を除く」と明記されています。さらに第6項には、満州問題についてアメリカ政府が日中両政府にサジェストすることが記されていました。

翌25日、24日案にあった11項目から1項目が削除され、最終的に10項目にまとめられています。その削られた項目とは、第6項の「満州問題についてのアメリカのサジェスト」でした。

さらに、第3項の「支那」の説明として挿入されていた「満州を除く」の句が削除されています。

こうしてハル・ノートが確定し、日本に手渡されたのです。このことが明らかとなったのは戦後になってからです。当時の日本は、前日まで「満州を除く」との言葉がハル・ノートに挿入されていた事実を知りません。

満州についての記述を削ることによってアメリカが何を狙ったのかは謎です。

はっきりしていることは、アメリカがなんらかの狙いを持ち、意図的に満州についての記述をすべて削ったことです。

そのことをアメリカの満州に対する宥和的な態度が改まったと解釈することもできれば、満州についてはふれないことで日本側のミスリードを誘ったと推測することもできます。

いずれにせよ、なんらかの力が働き、24日から25日までのわずか数時間の間に、ハル・ノートから満州についての記述がそっくり消されたのです。

どのような過程を経て満州についての記述が消されることになったのか、今日までまだわかっていません。

満州についての記述の削除にしても、暫定協定案が破棄されたことにしても、唐突感は否めません。まるですべての事象が、日本を開戦へ導くように仕込まれたかのようです。

日米ともに、そのように考える研究者も多く、だからこそルーズベルト陰謀論やホワイトを中心とするコミンテルン陰謀説が、絶えることなく幾度も蒸し返されているのです。

戦後、アメリカはハル・ノートには満州についての記述はないとして、満州については日本側の誤解があったと主張しています。

しかし、前日まで「満州は除く」とあった文言を、アメリカがあえて外して日本側に渡したことも事実です。そのことによってアメリカが何を意図したのか推測の域を出ませんが、さまざまな解釈が成り立ちます。そこにアメリカの悪意をくみ取ることも、十分に可能です。

結局のところ、ハル・ノートにて九カ国条約に基づく原則論を押し付けられている以上、九カ国条約違反として否認していた満州国をアメリカが認める余地はないと日本側が受け止めたことは当然であったといえそうです。

日本側がハル・ノートによって満州国の放棄を求められていると解釈したことは、当時の状況やこれまでの経過からして、やむを得ないことでした。

そのことは、満州についてのアメリカのサジェストや「満州は除く」の文言を削除するにあたり、アメリカ側としても十分に予想できることだったと考えられます。それを承知でアメリカがあえて満州についての記述を削ったという事実を、忘れるべきではないでしょう。

ハル・ノートを受け取った日本は、大きな衝撃に見舞われました。この続きは次回にて紹介します。

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