第1部4章 日米交渉(30/36)ハル・ノートと米側暫定案。なぜ米側暫定協定案だけが破棄されたのか?

乙案による交渉の行方について前回は紹介しました。今回はアメリカ側が乙案に代えて作成した暫定協定案について、追いかけてみます。

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

4-12. なぜ米側暫定案は破棄されたのか

米側暫定協定案は日米開戦を語る上で、大きなターニングポイントになっています。なぜならば、次のような経過をたどったからです。

日本が包括案である甲案と暫定案である乙案を提示したように、アメリカはもともと、包括案であるハル・ノートと暫定協定案の2つの案を日本に手渡すつもりでした。

ハル・ノートにしても暫定協定案にしても、両案が揃って渡されることを前提に作成されています。

原則論が対立する包括案での交渉妥結は、日米ともに無理と判断していました。そうなると交渉が妥結する可能性が残されているのは暫定案だけです。

中国からの撤兵や三国同盟など、すぐには折り合いが付きそうにない難題はとりあえず棚上げとし、日米が開戦一歩手前という現在の危機的な状況を一時的にでも回避しようとするのが暫定案です。

日本としては国内事情によりタイムリミットが設定されていただけに、戦争を避けるために暫定案の妥結に持ちこむよりない状況でした。

ところがハル・ノートと暫定案を日本に手渡す直前に、アメリカは突然、暫定案を引っ込めてしまいます。日本に実際に手渡されたのは、包括案であるハル・ノートだけでした。

暫定案がなく、ハル・ノートのみを突きつけられた日本は、大きな衝撃に見舞われました。

暫定案であれば、追い詰められた日本が受諾する可能性が、まだ残されていました。しかし、ハル・ノートのみとなっては、もはや交渉の余地がありません。ハル・ノートの受諾は、日本にとって戦わずして全面的に降伏することを意味していたからです。

つまり、アメリカが暫定案を日本に渡さなかったことが、開戦に至る重要な道標になっていることがわかります。

時系列の上ではハル・ノートを受け取った日本が受諾しなかったことが開戦に至る直接の原因であるだけに、開戦を決めたのはアメリカではなく日本側です。

しかし、暫定案を渡さなければ日米交渉が期限までに妥結する可能性は皆無であり、日本が先制攻撃を仕掛けてくることをアメリカは十分に認識していました。

それを承知で暫定案を渡さないということは、アメリカが日本との戦争を選択したことになります。その意味では日米開戦の切符を切ったのは、日本ではなくアメリカ側と言える余地があります。

日米双方の開戦責任を問う上でも、米側暫定協定案をめぐる動向は極めて重要です。

いったいアメリカはなぜ突如、暫定案を日本に渡すことを取りやめたのでしょうか?

そこにも日米交渉の大きな謎が潜んでいます。この謎を明らかにするために、米側暫定協定案が廃される過程について時系列で追いかけてみます。

その1.米側暫定案とは

アメリカの暫定協定案をはじめに起草したのは財務省の特別補佐官、ハリー・デクスター・ホワイトです。ホワイトは戦後、ソ連のスパイだった疑いが濃厚となっています。

ルーズベルト自身も「6ヶ月」と題した暫定協定案を構想し、ハルに渡しています。その内容は次の通りです。

①経済関係の回復(一定程度の原油と米。現在もしくは協定成立後)
②日本はインドシナとソ満国境、南方(オランダ、イギリス、タイ)に、これ以上兵力を送らない
③アメリカが欧州に参戦した場合、日本は三国同盟を発動しない
④アメリカは日中会談の橋渡しをするが、アメリカ自身は会談に参加しない
その後、太平洋協定

日米開戦と情報戦』森山優著(講談社)より引用

先に紹介した、スティムソンに示したルーズベルトの「六ヶ月停戦案」と大きく異なるのは、アメリカも太平洋において防備を強化しないとした項目が消えていることでした。

当時のアメリカは、フィリピンの軍事力増強を急いでいました。暫定案によって決戦の先延ばしを図るのは、フィリピンの防備を固めたいからこそです。暫定案にフィリピンの軍事力増強を妨げる項目を入れるわけにはいかなかったのです。

それでもルーズベルト暫定協定案では日本の南部仏印や中国からの撤兵が記されていません。ハル・ノートの代わりに、この案が日本側に提示されていたならば、日本側が受諾する可能性は高かったといえそうです。

国務省極東部でも暫定案が作られ、すべての暫定案はハルのもとで正式な暫定協定案としてまとめられていきました。複数の暫定案が作成されたことからも、アメリカが真剣に暫定案と向き合っていたことがわかります。

こうして最終的な暫定協定案が完成しました。しかし、その内容は乙案に比べてはるかに日本にとって厳しい内容にすり替わっていました。作成の過程で米軍部と国務省や財務省から次々と異議が挟まれたため、ルーズベルト暫定協定案に見られるような大胆な項目は取り除かれ、より慎重な内容へと置き換えられたためです。

その主な内容は、次の通りです。日米は極東アジア・南北太平洋に武力進出を行わない、日本が南部仏印から撤退すれば一定程度以上の物資を供給し、資産凍結も緩和する、暫定協定の有効期間は3ヶ月とする。

乙案との大きな違いは、援蒋行為についてふれられていないこと、さらに禁輸の解除が直ちに為されるのではなく、段階を追って緩和されることです。

そのことは、日本が南部仏印から撤退しても経済制裁がまだ続き、3ヶ月の停戦期間を利用してアメリカがフィリピンなどの軍事力を自由に増強できることを意味していました。

日本のみ不利益となる条件が多く、日本にとって受け入れがたい暫定案であったことはたしかです。

ただし、ハル・ノートに比べれば、まだ日本側に受け入れる余地が残されていました。当初の予定通り包括協定案であるハル・ノートと暫定協定案が同時に日本に手渡されていたならば、日本が暫定案を受諾した可能性が高かったとする見解も多々あります。

ハルは英蘭豪中の大使・公使に、この新たな暫定協定案を示し、今日ではハル・ノートと呼ばれる包括案とともに日本に提示すると伝えました。

これに対し、オーストラリアのケーシー公使はハルの一連の行動に疑問を呈しています。ケーシーは開戦への危機が高まるなか、ハルの行動が非現実的であったと述べました。

アメリカが時間稼ぎを優先し、暫定案による一時的な平和を本当に望むのであれば、要求が過多な米側暫定協定案を出すのではなく、日本側の提示した乙案をもとに交渉を進めた方が現実的であったことはたしかです。

乙案の援蒋行為の中止要請が問題であれば、それを削除した修正案を日本側に伝えれば済む話です。互いに歩み寄ることで妥当な落としどころを見つけてこそ「交渉」です。

アメリカから正式に申し入れがあれば、東郷外相としても陸軍の説得に動いたであろうことは、これまでの経過から見ても明らかです。

しかし、ハルはあくまでアメリカ主導のもとでの暫定案にこだわりました。

その2.暫定案に対する各国の反応

ハルが再び英蘭豪中の各国代表を招き、米側暫定案に対する本国の意向を聞いたのは、11月24日です。予想されていた通り、暫定案に強く反対したのは中国でした。

● 開戦まであと14日 = 1941年11月24日

中国大使がこだわったのは、北部仏印に残留する日本軍の数についてです。援蒋ルートに対する脅威を取り除くために、中国は日本軍を5千人にまで減らすことを求めました。

その日、ハルはルーズベルトの許可を得て、日本が提出してきた乙案と米側暫定協定案をチャーチルに直接打電しています。

英蘭豪中のいずれかの国にアメリカが対日提案について先に意見を求めたのは、日米会談のすべての期間を通じて、これが唯一のことでした。

アメリカは英蘭豪中に対し、「公式の交渉に入ることになれば事前に協議する」と約束していましたが、ようやくそれを果たしたことになります。

アメリカが非公式に位置づけていた日米交渉が、最後になってついに公式の交渉に格上げされた、ということです。

米国暫定案に目を通したチャーチルは同日の夜、「中国に冷たいのではないか」との短いコメントを寄せています。

翌25日の朝、ハリファックス英大使はハルに対し、英政府の公式な態度として乙案の受諾拒否と暫定協定案についてはすべてをアメリカに任せる旨を伝えてきました。

● 開戦まであと13日 = 1941年11月25日

エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)
wikipedia:エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵) より引用
【 人物紹介 – エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵) 】1881年 – 1959年
イギリスの政治家・貴族。保守党下院議員を経て、第1次世界大戦に従軍。その後、植民地省政務次官・教育委員会委員長・農林水産大臣を経て、インド総督に就任。インドの反英運動に対して弾圧と宥和を巧みに使い分ける統治を目指すが、失敗。ガンジーをはじめとする6万人以上の政治犯を大量投獄し、弾圧法規を次々と制定する大弾圧を実行した。その後、宥和政策によりガンジーから譲歩を引き出すが、インド独立に反対するチャーチルからは「ガンジーが半裸姿でイギリス国王兼インド皇帝の名代である総督と対等に交渉している。このような光景はインドの不安定と白人の危機を招く」と批判された。その後、チェンバレン首相のもとで外務大臣に就任し、チャーチル政権でも留任するが、チャーチルと方針が合わずに辞任。大戦中は駐米大使として、英米関係の緊密化に努力した。

オランダは日本の南進に脅威を感じていただけに、米国暫定案を支持しています。

オーストラリアのケーシー公使も「何も提案しないよりも、ハルの考えに基づく対案を日本に送ることを望む」と暫定案を支持しました。

しかし、中国のみは蒋介石を筆頭に、米側暫定案に対する反対の声を上げ続けました。中国はハルなど米政府高官や米議会議員に向けて、まさに洪水のように反対の電報を送りつけています。

中国は、禁輸を緩和することで日本が再び力を得ることになる、そうなれば日本の刃が向けられるのは、すでに日本と戦っている中国しかない、と危機感を訴えました。

北部仏印に残る日本軍の兵数についても、執拗(しつよう)に5千人に抑えるべきだと主張しています。

対してハルは暫定案にある2万5千人の倍にあたる5万人でも脅威にはならないと、中国の要請を撥ね付けました。中国に対するハルの態度は、一貫して冷淡でした。

また同日、ハルは暫定案の破棄を求める中国の主張をヒステリックな過剰反応として不快感を示し、胡適大使に「暫定協定を放棄した場合、日本軍が南方に侵攻してきても、米国は責任をもてない」と警告を与えています。

こうしたことから、中国の強い反対があってもハルとしては暫定案を日本に渡すつもりでいたことがわかります。

その3.対日参戦を議題にしたホワイト・ハウス会議

25日に米側暫定案の最終案が決定していますが、具体的な兵数については削除され、「1941年7月26日の兵力」という文言に落ち着いています。

25日の午前、ハルはスチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官との定例会議を行い、暫定協定案の最終案を示しながら「今日か明日のうちに日本側に提案する」と伝えました。

その際、スチムソンは暫定案の内容は日本に厳しいため、日本が受け入れないだろうと思ったことを日記に綴っています。

その日の正午からホワイトハウスにてルーズベルトを囲んで戦争会議が開かれました。29日までに交渉妥結に至らない場合は「情勢は自動的に進展する」とのマジック情報をつかんでいたため、アメリカ側でも危機感が高まっていたのです。

ルーズベルトは「日本は予告なしで奇襲攻撃をやることで悪名が高いから、次の月曜日(12月1日)にも攻撃されるかもしれない」と注意を喚起しています。ハルも「日本は同時に数ヵ点を攻撃するかも知れない。わが国の安全を護る問題は陸海軍の手中にある」と述べ、以後はアメリカとして、いかにこれに対処するのかが話し合われました。

ルーズベルトやハルの発言からは、この時点でアメリカとしても日本との戦争を覚悟していたことがうかがえます。29日の期限を過ぎれば、その直後に日本が攻撃に出ることはほぼ確実とアメリカ側は認識していました。

その日の『スチムソン日記』には有名な一文が記されています。

「問題は、われわれ自身が過大な危険にさらされることなく最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導して行くべきか、ということだ。これは難しい注文だった」

この一文は「アメリカが早くドイツとの戦争に参戦するために日本を戦争に誘い込もうとした」とのルーズベルト陰謀説において、証拠の一つとして頻繁に引用されています。

10月16日の『スチムソン日記』にも同じ趣旨のことが綴られていることは、すでに記した通りです。

裏口からの参戦を謀ったかどうかはともかく、アメリカが日本と戦争を行うためには、国民に対日参戦やむなしと納得させるだけの理由が必要でした。そのためには日本が先にアメリカの領土を攻撃し、しかも被害が少ないことが好都合であることは、誰の目にも明らかです。

このときの会議にて、対日参戦のもっとも適切な方法について具体的に論議されました。

ここでも問題となったのは、日本が攻撃の矛先をアメリカに向けることなく、イギリスやオランダの植民地に限定した場合です。その際、議会を説得するための議会教書の起草についてハルが担当することが決められています。

会議にてハルは暫定案についても、次のようにふれています。

「日本と協定に達する見込みは殆どない。しかし会談を継続して最後の一秒まで時をかせぐのがアメリカの利益であることは明らかだから、十一月二十日の日本提案にたいして反対提案するための仕事はつづけられねばならない」

ハルの発言から、少なくとも25日の会議が終わる時点まで、ハルが暫定案を日本に渡すつもりでいたことがわかります。

ところが25日の夜から26日の早朝にかけて何かが起き、ハルの考えが変わります。ハルはせっかく作成した暫定協定案を日本に渡さないことを決めたのです。

なぜ、ハルは一夜にして考えを改めのでしょうか?

この続きは次回にて。

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