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セブ島留学レキシジン 4章「カウントダウン」 1941年 日米交渉に望みをかけて 第1部4章 日米交渉(26/36)甲案による日米交渉の行方。...

第1部4章 日米交渉(26/36)甲案による日米交渉の行方。アメリカは日本本土を奇襲爆撃する寸前であった!

甲案と乙案の詳細については、前回の記事にて紹介しました。今回は甲案による日米交渉の経過について追いかけてみます。

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

4-10. 甲案による日米交渉の行方

甲案と乙案による交渉は、開戦へと至る最後の日米交渉です。日本が最後の日米交渉に望みをかけるも、交渉妥結に至らない際は開戦の決意を固めたように、アメリカでもまた日本との戦争は避けられそうにないとの観測が高まっていました。

その1.アメリカの戦争準備

アメリカはマジック情報によって、東条首相以下の政府指導層が戦争回避に向けて努力を続けていること、軍部の抵抗によって譲歩に限界があること、絶望感が漂っていることなど日本の状況を正確につかんでいました。

日本が大幅に妥協しない限り、やがて戦争となることは米政府の指導者にもわかっています。

アメリカにとっての問題は、開戦は避けられないとしても日米の対決を先延ばしするために、日本との合意を成立させるのかどうか、もし成立させるのであれば、どこまで妥協するのかにありました。

- ABCD陣営の結束 -

アメリカのアジア太平洋方面における基本的な国策は、ABCD陣営の結束を強めて日本に対抗することです。日本と中国が結託しないように、中国への援助を続けることがアメリカにとっての国益であると判断されました。

しかし、戦後に中国が共産化し、アメリカと激しく対立したことにより、このときのアメリカの方針については疑問とする声も上がっています。

当時のアメリカにとって、中国よりも日本との貿易の方がはるかに経済的に重要でした。広大な中国大陸という将来的な潜在能力はともかく、アメリカが中国を助けるために日本と戦争を始める必要など、本来であればなかったと考えられます。

結局のところ、アメリカの中国援助がもたらしたものは日本との戦争だけでした。日本の敗戦により日本軍は中国大陸から消えたものの、その代わりに勢力を伸ばしたのは中国共産党であり、ソ連です。

そのことがアメリカの国益を大きく損ねたことは、歴史の証明するところです。

それでも当時のアメリカは、ABCD陣営こそがアメリカの利益とアジアの安全を保護するものと信じていました。日本との交渉妥結のためにABCD陣営の結束を弱める気など、端からアメリカにはなかったといえるでしょう。

- 米軍部は対日戦争に反対 -

11月2日にルーズベルトのもとに「日本は11月中に雲南攻撃を開始する。シンガポールの英空軍が雲南防衛にあたり、また日本に米英共同警告が出されるよう取計られたい」との蒋介石書簡が届けられました。

この要請に対して中国派遣米軍事使節団長マグル-ダーは「場合によってはフィリピン米空軍の使用をも考慮」と米政府に伝えていました。

すでにチャーチルは素早く動き、イギリスが誇る新型戦艦プリンス・オブ・ウェ-ルズ号をシンガポールに派遣し、シンガポール英空軍を中国で使用してもよいと、ルーズベルトに伝えています。

その際、米英が強硬な態度を示すことが日本の軍事行動を抑える、とチャーチルは提言しています。

日本が数日中に重大な決定を行うとの情報を、すでにアメリカはつかんでいました。それに伴い、アメリカ側の軍事行動も活発化しています。

強硬派として知られるホーンベックは、タイへの軍事援助を主張し、次のような意見をウェルズ国務次官に送っています。

「日本は数日中に重大決定をする。仏印に軍事力を増強している。アメリカが態度を表明し、米英が中国に航空機などの援助を行なえば、暫くは日本が行動に出るのを躊躇させる。それらが行なわれねば、極東の事態は急展開する。もちろん対日警告を行なっても日本が行動に出る可能性はあるが、その場合にも日本を恐れる必要はない。アメリカは対日戦争をやりながら対独攻撃を遂行することができる。」

日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編集(朝日新聞社)より引用

蒋介石やチャーチルの提言に従ってアメリカとして対日警告を行うかどうかを決めるための会議が行われました。

ホーンベックが積極論を展開するなか、軍部代表は日本との戦争に否定的でした。フィリピン米空軍の出動は対日戦争の結果を招く危険があるため反対であるとし、たとえ中国が敗北してもアメリカは対日戦争に参加すべきではない、と言い切っています。

最終的にルーズベルトへの答申として「極東情勢に関する評価」がまとめられ、11月5日に届けられましたが、軍部の主張がそのまま採用されています。

結論として、
(1)米軍の中国派遣はすべきではない、
(2)対中国物資援助を促進する、
(3)在中国米義勇部隊への援助は最大限度に継続、促進、
(4)対日最後通牒は出すべきではない、の4項目があげられていました。

答申のなかにはABCD協定にふれる箇所もあり、その主な目的はドイツの打倒とし、日本を倒してもドイツが敗北していなければ戦争の結末とはならない、大西洋における対独戦闘力を著しく弱めるような対日無制限攻撃は行なうべきではない、と指摘しています。

極東の防衛力が整うまで対日開戦は極力避け、日本軍が積極的に動かない限りは対日軍事行動を控えることが、米軍部の基本方針でした。

ちなみに第3項にあがっている「在中国米義勇部隊」について、次節にて捕捉します。

ー フライング・タイガースの日本本土奇襲爆撃計画 -

蒋介石政権への援助物資に加えて、アメリカは中国軍への軍事顧問の派遣も行っていました。アメリカ陸軍航空隊から退役する寸前だったクレア・シェンノート大尉が、中国空軍の軍事顧問に就いたことが在中国米義勇部隊の始まりです。

クレア・リー・シェンノート
wikipedia:クレア・リー・シェンノート より引用
【 人物紹介 – クレア・リー・シェンノート 】1893年 – 1958年
アメリカの軍人。最終階級は中将。第1次世界大戦に従軍の後、航空戦術の教官に就任。空戦思想が蒋介石に認められ、中国の空軍顧問となる。直後に日中戦争が勃発すると、アメリカから義勇航空士を募り、義勇部隊フライング・タイガースを創設した。フライング・タイガースによる日本本土への空爆を密かに計画した。アメリカが第2次世界大戦に参戦するとともに、部隊はアメリカ陸軍航空隊に編入され、現役復帰。アメリカ空軍の指揮をとるも、上官とたびたび衝突し、辞任。戦後は民間航空設立のため中国に戻り、民間空運公司 CATの発足に協力した。

これについてはヘンリー・S・ストークス著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』に詳しく紹介されています。以下は、その要旨です。

シェンノートは戦闘機とともにアメリカ陸軍航空隊のパイロットを「義勇兵」として提供する案を、ルーズベルトに提出しました。ルーズベルトはこれを直ちに承認し、極秘の大統領令を発したとされます。

全米の陸海軍・海兵隊・沿岸警備隊の航空基地を訪れ、シェンノートらは義勇兵の募集を行いました。その際、いったん国籍を離れて中国軍人として戦うものの、雇用期間が終わった後にはアメリカ陸海軍に復帰することが保証されていました。

このことは、重大な国際法違反でした。
「義勇兵」とは名ばかりで、実態は現役軍人となんら変わらないからです。

こうしてシェンノートが集めた義勇兵による飛行隊は、機首に猛虎をあしらったマークがデザインされていることから「フライング・タイガース」と呼ばれました。

アメリカが供給する飛行機に中国空軍のマークである「青天白日」が付されているものの、そのパイロットは「義勇兵」という名のアメリカ航空兵です。

その「フライング・タイガース」に日本本土を奇襲して爆撃する計画が米陸海軍合同委員会によって立てられました。作戦名は日本本土爆撃の頭文字をとって「JB-355計画」と名付けられています。

「JB-355計画」についての覚書が中国問題担当のカリー大統領補佐官からルーズベルトに提出されたのが、1941(昭和16)年の5月9日です。

ルーズベルトは5月15日に「JB-355計画」を具体化するように公式に命じました。

その結果、B17をはじめとする150機の長距離爆撃機と350機の戦闘機を10月1日までに蒋介石政権に供与し、中国基地から発信させて、東京・横浜の産業地域と大阪・京都・神戸の三角地帯に奇襲爆撃する計画がプランニングされました。その目的は日本の「兵器および経済体制を維持するために必要な生産施設を根絶するために、日本の民需、軍需工場を壊滅する」ことです。

この計画に米陸海軍長官が連署し、大統領のもとに提出されたのが7月18日です。その5日後にあたる7月23日、ルーズベルトは「JB-355計画」を承認しました。

ルーズベルト大統領が日本本土爆撃作戦として「JB-355計画」を承認した文書は、すでに公開されています。ルーズベルトのイニシアルである”FDR”の署名とともに、「軍事使節団か武官のどちらに指揮させればよいのか、検討せよ」と書き込まれています。

供与された飛行機は中国軍機の体裁を施されるものの、操縦するパイロットは義勇兵に偽装したアメリカ軍飛行士です。

真珠湾攻撃は奇襲として今日まで非難されていますが、その5ヶ月も前にアメリカが日本本土を奇襲爆撃する寸前であったことは注目に値します。

実際にはヨーロッパ戦線でイギリスに危機が迫ったため大型爆撃機を急いでイギリスに回すことになり、中国への爆撃機の供与が遅れ、計画が実施に移されることはありませんでした。

もし、「JB-355計画」が実行されていたならば、日本が甚大な被害を被ったことは間違いありません。当時の日本には防空に対する備えが、まったくと言ってよいほどありませんでした。

日本の南部仏印進駐が行われたのが7月28日です。その南部仏印進駐の5日前、実行されたなかったとはいえ、アメリカが日本本土を奇襲爆撃する「JB-355計画」に正式にゴーサインを与えたという事実に変わりはありません。

以上が日本本土奇襲爆撃計画の概要です。今回はヘンリー・S・ストークス著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』から要旨を抜粋しましたが、その元本となったのはアラン・アームストロング著『「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実』だと思われます。

アームストロングの書籍は日本本土爆撃計画が実行されていれば真珠湾攻撃されることもなかった、実行されなくて残念だ、との論調で書かれているため、日本人としては不快感を拭えません。

「JB-355計画」が公にされたのは2000年前後のことです。それまで日本側は一部の研究者を除き、日本本土爆撃計画があったことさえ知りませんでした。

ただし、「JB-355計画」の日本爆撃計画については、ルーズベルトがどれほど現実的に考えていたのかについて異論も多く出ています。日本では秦郁彦元日本大学教授が『陰謀史観』のなかで 、この計画を次のように批判しています。

著者のアームストロングは対日先制攻撃が予定どおり実行されていたら、「日本の真珠湾奇襲は阻止されていたかもしれない」と述べ、訳者の塩谷紘は「(米は)日本と同じ穴のムジナで……果たして日本に事前に通告していただろうか」と同罪論を展開しているが、私には最初から「絵にかいた餅」も同然としか見えない。

なぜなら、供与予定のロッキード・ハドソン軽爆撃機の航続距離は三四〇〇キロメートル(ジェーン航空機年鑑)しかないのに、発進予定基地の珠州から東京までは二六六〇キロ、大阪でも二二二〇キロあるので、往復爆撃は不可能と言ってよいからである。

陰謀史観』秦郁彦著(新潮社)より引用

当時の爆撃機の航続距離からして、そもそも「JB-355計画」は実行不可能な作戦であったと指摘しています。

そうなると「JB-355計画」は、武器貸与法の枠を出ない計画となります。ルーズベルトの真意がいずこにあったのか、今となっては不明です。

いずれにせよ、実際に行われた真珠湾攻撃と幻に終わった日本本土奇襲爆撃計画を同列に扱うことはできませんが、日本だけが闇雲に開戦に向けてひた走ったのではないことを「JB-355計画」は示しています。

日増しに高鳴る軍靴の音を、日米ともに不気味に感じていたことは、たしかなようです。

その2.マジックがもたらした誤解

- 誤訳によって浮き彫りとなった日本の不誠実さ -

甲案と乙案は11月5日の御前会議の決定を待つことなく、11月4日にワシントンの野村大使に送られました。

アメリカはその日のうちにマジックによって、この外交電文を解読しています。ところが飜訳の過程でまたも大きな誤訳が生じ、日本側の真意はねじ曲げられることになりました。

甲案の目玉とされたのは以下の3つです。
1.「全世界」で適用されることを条件に太平洋と中国での無差別通商条約を承認する
2.三国同盟条約の解釈と履行は、あくまでも日本が自主的に決定行動する
3.中国から撤兵するが、北支・蒙彊・海南島には所要期間駐兵を続ける

いずれもアメリカ側の求めているすべてを満たしてはいないものの、以前に比べると日本側が大きく譲歩した内容になっています。

2番目の三国同盟についての記述は、これだけではなにを譲歩しているのかわかりにくいかもしれません。ここで日本がアメリカに伝えているのは、参戦についてはあくまで日本が自主的に判断することを表明することで、米独戦が始まっても日本が自動的にドイツ側として参戦するわけではない、ということです。

三国同盟に必ずしも縛られないと表明すること自体が、日本にとっての譲歩になっています。

3番目の「北支・蒙彊・海南島には所要期間駐兵を続ける」については、日本では25年の駐兵期間を決定していますが、期間を明示するのはかえって事態を紛糾させる恐れがあると判断されたため、あえて「所要期間」と表記されました。

具体的な所要期間についてアメリカから質問された際は、25年と答える手はずになっていました。

アメリカがマジックによって誤訳したのは甲案そのものではありません。重大な誤訳が生じたのは、野村大使に対して甲案による交渉について指示する訓電においてでした。

甲案についての誤訳であれば、日本側でも気がつくため訂正を促すことも可能です。ところが訓電の誤訳ともなると日本側で気がつくはずもなく、最後まで訂正されませんでした。日本側としては、まさか訓電がアメリカに筒抜けになっているとは思ってもいません。

最大の誤訳は、先の三点を日本側の譲歩として強調するように指示した後、「なお四原則については、これを日米間の正式妥結事項中に包含せしむることは極力回避するものとす」と指示した文書で生じました。

この「四原則」の言葉が「ハル四原則」を表していることは明らかです。つまり日本側はハル四原則については、日米間の妥結事項にできるだけ含まないように交渉せよ、と指示したことになります。

ところがアメリカ側の誤訳により、「日本側が譲歩した三点は日米間の妥結事項にできるだけ含まないように交渉せよ」と受け取られてしまったのです。

なぜなら「四原則」をアメリカ側は「四、原則として」と、本来であれば句読点が入らない電文に、勝手に句読点を入れて解釈してしまったからです。

電文は句読点のないカナ文字のみで作られています。句読点は読み手が推測で入れるよりありません。その課程でアメリカ側にミスが生じたことになります。

日本側が譲歩した三点を説明した後で、「その4、原則としてこれを日米間の正式妥結事項中に包含せしむることは極力回避するものとす」と訳されたため、文中の「原則」が意味するものは、先に説明した「日本側が譲歩した三点」になってしまったのです。

この誤訳によって、日本は3つのことを譲歩したと強調しながらも、そのことを日米間の正式な妥結事項には入れないようにせよ、と指示したことになります。

ハル国務長官らは、そのような日本の誠意の欠けた態度に不信感を募らせました。日本は口約束だけで逃げるつもりだ、と思われても仕方がない状況です。

日本側が野村大使に伝えたことがねじ曲げられ、事実とはまったく異なる情報として上層部に伝えられることで日本側の悪意が浮き彫りとなる、という構図が、ここでも繰り返されたのです。

- 「最後的譲歩案」をめぐるニュアンスの違い -

他にも多くの誤訳や誇張がありました。日本側が中国の駐兵について「四年にわたる事変で日本が甘受した甚大な犠牲に照らせば決して過大ではなく、むしろ小さすぎる」と説明したことを、「実際われわれは四年にわたり中国でどんなに厳しい戦いをしてきたか! どれほど大きな犠牲を我々は払ったか! 米国はこの点をわかるはずなので、これに関する米側の要求は〝希望的観測〟にすぎない」と、原文はない大げさな言葉が勝手に盛り込まれています。

翻訳者が日本にもつイメージが、そのまま増幅されることで、悪意を含んだ訳文が生成されていることがわかります。

さらに「修正せる最後的譲歩案にして左記の通り緩和せるものなり」という原文を「修正せる最後通牒なり、左記の通り我が方の要求を加減した」と訳していることも、東京裁判で明らかにされています。

これについて東郷外相は回想録にて次のように弁明しています。

「この最後的案とか絶対にとかの用語が東京裁判では、検事側よりえらい発見でもした様に、問題とされるのであるが、売り買いの交渉に於ても、これが切り切りとは一度に限る訳ではなく、自分等が在外に於て交渉するときは幾度かこれを以て最後案と心得られたしとの訓電に接したことがあるので、事情を知っているものには何も問題にする程のことではないのはよくわかるのである」

つまり東郷としては、本案をもって最後的案との覚悟をもって交渉妥結に努めるようにと強く支持したに過ぎず、最後通牒の含みはなかったと主張しています。

東条首相もまた東京裁判にて、甲案・乙案に対してアメリカから譲歩案が出れば、日本もさらに譲歩した案を出す用意があったと述べています。

東郷外相が11月1日の連絡会議決議に同意する際に、甲案・乙案に対してアメリカが歩み寄りを見せた場合には、日本としてさらに譲歩することを東条首相に約束させていたことは事実です。

つまり、日本としては交渉の成り行きによっては甲案・乙案からさらに譲るつもりがあったことがわかります。

しかし、こうした事情はアメリカには伝わりませんでした。アメリカは甲案・乙案を日本の最後通牒だと受け取ったのです。

ただし、その原因をマジックの誤訳のみに求め、アメリカ側にすべての責任を押しつけることには無理があります。日本側の発信した他の情報から見ても、甲案と乙案が日本の最終案であると見なすことは自然なことです。

それが東郷外相や東条首相の解釈とは異なっていたとしても、日本が甲案・乙案をアメリカへの最終回答に位置づけていたことは間違いありません。

なお11月5日には東郷外相から野村大使に宛てて「本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印をも完了する必要ある処……」との重要な電文が送られています。

12月1日午前零時と期限を設けたものの、実際には11月25日までに交渉を妥結させ、調印を完了する必要があると訓電しています。

この外交暗号電文も、すぐにアメリカによって解読され、首脳部に伝わっています。日本の開戦決意は、もはや揺るぎないものとアメリカは解釈しました。アメリカにとって最大の関心は、日本が具体的にいつどこへ攻撃を仕掛けてくるかにありました。

次回は米英の対日戦争決意について追いかけます。

ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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