第1部4章 日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした日米開戦への道

第1部4章 日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした日米開戦への道

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

戦争の見通しが曖昧なまま終わったことにより、開戦回避に向けて舵を切るには至りませんでした。その経過については前回の記事にて紹介しています。

戦争回避か開戦か、まだまだ容易には結論が出ないと見られていた矢先、事態は急変します。

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

4-9. 開戦決議への道のり

その1. 示された3案

連絡会議での再検討がほぼ終わった10月30日、いよいよ新たな国策を決するために東条首相は次の三案を提案しました。

第1案 戦争することなく臥薪嘗胆する。
第2案 ただちに開戦を決意する。
第3案 戦争決意のもとに、作戦準備と外交を並行させる。

この三案のいずれを選ぶかに、その後の日本の運命がかかっていました。

● 開戦まであと39日 = 1941年10月30日

陸軍参謀本部は第2案を強く主張し、すぐに開戦を決意し、今後の対米交渉は開戦を隠すための偽装外交とすること、開戦は12月初旬とすることを決めています。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道2
[fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
日米開戦時の陸軍統帥部(参謀本部)の主要メンバー
統帥部の統帥権は天皇に直結していた。参謀本部は陸軍の軍令(軍に命令を出し作戦行動を遂行する業務)を担った。[/fontsize]

対して陸軍軍務局は第3案を主張し、対米交渉の継続を望みました。東条首相も外務省も第3案を推しています。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道5
[fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
日米開戦時の陸軍省の主要メンバー
陸軍省は日本政府の閣僚である陸軍大臣をトップとする組織。予算など、陸軍の軍政(軍を編成・組織し維持する業務)を担った。[/fontsize]

ここまで、態度が明らかとなっていないのは海軍でした。海軍は三年目以降の対米英戦には自信がないと言いながらも、あからさまに開戦に反対する言動は慎んでいたため、三案のいずれを選ぶのか、周囲からは読み切れなかったのです。

海軍軍令部にしても永野軍令部総長は開戦派に近いものの、伊藤次長は慎重な姿勢を崩さず、開戦に否定的であったため、軍令部としてどの案を支持するのか不透明でした。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道1
[fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
日米開戦時の海軍統帥部(軍務局)の主要メンバー
陸軍参謀本部と同じく、統帥部の統帥権は天皇に直結していた。軍務局は海軍の軍令(軍に命令を出し作戦行動を遂行する業務)を担った。[/fontsize]

つまり、当時の状況は第2案と第3案で意見が対立するなか、海軍がどちらに組するかに日本の運命が託されていたといえるでしょう。

海軍の動向は、まもなく明らかとなりました。これまで、態度を保留していた嶋田海相が10月30日、ついに海軍としての考えを表明したからです。

それは、戦争決意でした。もともと開戦反対派であったはずの嶋田海相が、開戦を容認する立場へと豹変したのです。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道7
[fontsize size=”1″]『図説 日米開戦への道』平塚敏克著・太平洋戦争研究会編 (河出書房新社)より引用
日米開戦時の海軍省の主要メンバー
海軍省は日本政府の閣僚である海軍大臣をトップとする組織。予算など、海軍の軍政(軍を編成・組織し維持する業務)を担った。[/fontsize]

その決断は、日本を開戦へと導く大きな一石となりました。

その2.嶋田海相の開戦決意

- なぜ豹変したのか -

会議前の嶋田海相が「外交はぜひ実行したい」「できるだけ戦争は避けたい」と語っていた記録が残されていることからも、当初は嶋田海相が戦争回避を目指して連絡会議に出席していたことは間違いありません。

ところが嶋田海相は10月30日の連絡会議の後、沢本頼雄海軍次官や岡敬純軍務局長ら海軍省幹部を前に、重大な決意を打ち明けています。

『沢本頼雄海軍次官日記』によると、数日来の空気を総合すれば、この大勢を挽回することは難しい、アメリカから先制攻撃される可能性もある、ゆえにこの際戦争の決意をなし、今後の外交は大義名分が立つように進めることで国民が正義の戦いだと納得するように導く必要がある、と嶋田海相が語ったとされます。

期せずして示された戦争決意に驚いた沢本次官や岡軍務局長は、嶋田海相を翻意させるべく説得に尽くしました。沢本次官は日本が臥薪嘗胆を続けても、アメリカは議会の承認を得られなければ戦争できないのだから、アメリカからの先制攻撃はあり得ないと反論しています。

対して嶋田海相は次官の保証など意味がない、もし海軍が動けなくなってからアメリカに攻められれば、自分が腹を切ることは当然としても、それだけで済む問題ではないと沢本次官を叱りつけ、「この際、海相一人が戦争に反対したために時機を失したとなっては申し訳がない」と戦争決意の程を語りました。

嶋田海相が突然、開戦決意を固めた背景には、伏見宮博恭王からの早期開戦勧告が大きく影響したとされています。

10月27日、伏見宮は嶋田に対し「速に開戦せざれば戦機を失す」と圧力をかけています。この日の『嶋田日記』のタイトルは『陛下の御決意』です。嶋田日記によると伏見宮は天皇が「結局一戦避け難からんか」と語り、開戦を決意したことをほのめかしたとされます。

天皇が開戦決意に傾いていると聞いたことが、嶋田の「この際、海相一人が戦争に反対したために時機を失したとなっては申し訳がない」のひと言につながったものと見られています。

しかし、歴史研究家の多くは、伏見宮が伝える天皇の言葉を疑問視しています。もともと伏見宮は早期開戦を望んでいました。10月9日に伏見宮が拝謁(はいえつ)した際、早期開戦の建言があったことに対して、天皇が「痛く御失望」された様子だったと木戸日記にも綴られています。

こうした事実と伏見宮の語ったこととは矛盾しています。天皇が「結局一戦避け難からんか」と語った記録は伏見宮が口にした以外はどこにも見当たらないため、伏見宮の創作ではないかと考えられています。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道6
wikipedia:伏見宮博恭王 より引用
伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)1875(明治8)年 – 1946(昭和21)年
明治時代-昭和時代の皇族・元帥。明治維新前に創立された宮家中で最も古い伏見宮家の23代。日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。横須賀鎮守府司令長官・海大校長・第2艦隊司令長官・軍事参事官を経て、海軍軍令部総長となり海軍統帥の最高責任者として昭和天皇を補佐した。皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富だった。戦後、皇籍を離脱。

嶋田海相が伏見宮の言葉を疑わなかったのかどうかはわかりませんが、嶋田にとって伏見宮は特別な恩人でもあっただけに、その勧告に背くことなどできなかったのかもしれません。嶋田が海相にまで出世できたのは、伏見宮の庇護(ひご)があったからこそと言われています。

嶋田海相は伏見宮の勧告に素直に従い、開戦決意を固めました。日本にとって、その意味するところは極めて重大でした。

- 海軍の開戦容認がもたらしたもの -

嶋田海相の開戦決意は、これまで開戦に慎重な姿勢をとってきた海軍省が開戦を容認したことを意味しています。

嶋田海相を避戦に引き戻すための説得が様々な方面から試みられましたが、海相の決意は固く、いずれも失敗に終わっています。東郷外相は海軍長老陣を動かすことで説得に当たりましたが、それも徒労に終わりました。

海軍省が開戦に傾いたとなると、残るは海軍軍令部です。伊藤整一次長は「説明の如き国家資源にては自信なし」と対米戦争を回避すべきと主張し、福留繁作戦部長も即時開戦には反対する立場をとりました。しかし、開戦に代わる有効な選択肢を提示することができずにいました。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道3
wikipedia:伊藤整一 より引用
【 人物紹介 – 伊藤整一(いとう せいいち) 】1890(明治23)年 – 1945(昭和20)年
大正-昭和期の海軍軍人。最終階級は海軍大将。アメリカ駐在後、最上・愛宕・榛名の各艦長を務め、海軍省人事局長・軍令部次長を歴任。戦時中は福留中将から航空特攻決行の意見具申を受けるも、「まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではない」と退ける。第二艦隊司令長官に補され、1945年に戦艦「大和」による海上特攻である天一号作戦参加を命令される。その際、当初は無謀な作戦になかなか納得しなかったが、後輩である連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将から「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言われると「そうか、それならわかった」と即座に納得し、戦艦大和に乗艦し戦地に赴く。

その際、配属したばかりの士官を降ろした。4月7日、坊ノ岬沖海戦において大和がアメリカ航空艦隊の艦載機による総攻撃にさらされると、作戦中止の具申と駆逐艦による大和生存者救助を命じた。この英断によって多くの人命が救われた。大和が撃沈されるなか、有賀幸作艦長と共に退艦を拒否し、大和とともに海中に没す。54歳にて戦死。戦没者殊勲として勲一等旭日大綬章を受章。

そんななか、永野軍令部総長は海軍省による開戦容認を追認し、開戦やむなしの判断を示しました。

海軍内には開戦に反対する声が依然として強かったものの、嶋田海相と永野軍令部総長という海軍省と軍令部のトップ2人が開戦やむなしの判断を下したからには、もはやどうにもなりません。

山本五十六連合艦隊司令長官は同期の嶋田海相に書簡を送り、聖断による戦争回避を訴えましたが、翻意には至っていません。

沢本次官は辞意を表明することで抗議の意を示しましたが、嶋田海相から二年後に連合艦隊司令長官という破格のポストを用意すると説得されたことで、辞意を取り消しています。このことを後年、沢本次官は何度も悔やんでいます。

結局のところ、海相と軍令部総長の開戦容認に対し職を賭してまで反対しようとする人物は、海軍内にはいませんでした。

こうして海軍としては開戦容認へと、立場を転換させたのです。

振り返れば9月6日の御前会議での決議を白紙に戻し、再検討することになったのは、海軍が開戦三年目以降の対米戦に自信をもてないとし、開戦に事実上の「待った」をかけたからこそです。

東条首相にしても及川海相が対米戦に不安を隠さなかったからこそ、国策を再検討することで避戦へ導こうと決意したのです。

ところが、ここに来て海軍が「開戦やむなし」と方向転換したのでは、避戦に向かっていた流れが一気に逆流することになりました。

開戦三年目以降は不利に陥るとしていた海軍の予測は、放棄されました。これより永野軍令部総長は「開戦三年め以降の見通しは不明」との態度を貫きました。

「自信なし」が「不明」と言葉を置き換えたことで、無理やり「開戦やむなし」の判断が為されたのです。秋丸機関や総力戦研究所の報告を闇に葬ったように、ここでも不都合な事実から目を逸らすことが繰り返されています。

対米戦で矢面に立たされる海軍が避戦を貫く限り、陸軍のみでいくら開戦を叫んだところで戦争突入はあり得ません。

木戸内大臣や武藤軍務局長など避戦派にとっての最後の頼みの綱が海軍でした。海軍が開戦に同意しない限り、戦争を回避できる可能性が残るからです。

しかし、海軍が開戦を容認したことで、その目論見は完全に崩れ去りました。

陸海軍が「日米開戦やむなし」の方向で一致したことにより、11月1日以降の大本営政府連絡会議もまた開戦へ向けて意思が統一される経過をたどりました。

嶋田海相による開戦決意の表明は、日本の対米開戦意思を事実上決定付けたのです。

その3.激論 11月1日の連絡会議

戦争回避か開戦かを決める最後の連絡会議が11月1日に行われました。

● 開戦まであと37日 = 1941年11月1日

会議に先立ち、早朝に東条首相と杉山参謀総長が会談しています。東条が外交継続の第三案を主張したことに対し、杉山は即時戦争決意の第二案を主張しました。東条は天皇が第二案に反対であると告げますが、杉山は陸軍として第二案は到底受諾できないと突っぱねています。そのため陸軍は参謀本部と軍務局で意見が分かれたまま、会議に臨むことになりました。

午前九時、日本の運命を決定付ける連絡会議が始まりました。16時間を超える激論を経て、結論が出されたのは翌二日の午前一時過ぎです。

開戦へ至る経過を振り返ったとき、このときの連絡会議が極めて重要であったことがわかります。この会議で何が議論されたのかを、振り返ってみます。

- 早々に消えた臥薪嘗胆 -

まず、検討されたのは第一案の臥薪嘗胆です。東郷外相と賀屋蔵相は、アメリカが画策しているのはあくまで欧州戦争に参戦することであり、アメリカから日本へ先制攻撃を仕掛けてくる政治情勢にはないのだから、あえて日本から戦争を仕掛ける必要はない、と主張しました。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道4
wikipedia:賀屋興宣 より引用
【 人物紹介 – 賀屋興宣(かや おきのり) 】1889(明治22)年 – 1977(昭和52)年
昭和期の大蔵官僚・政治家。ロンドン海軍軍縮会議に随員として参加。条約の締結賛成だったために、次席随員として参加していた山本五十六と鼻血を出す殴り合いを演じた。大蔵次官をへて第1次近衛内閣の蔵相に就任。「賀屋財政経済三原則」を発表して日中戦争戦時の予算の途を開いた。北支那開発総裁を経て東条内閣にて再び蔵相となる。東郷外相と共に米英に対する開戦には終始反対の立場をとった。戦時中は戦時財政の責任者として戦時公債を濫発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。

戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。喘息持ちだったが、規則正しい獄中生活で完治したとされる。仮釈放後は衆議院議員となり、岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約の改定に取り組んだ。池田勇人首相の所得倍増政策にも尽力。法務大臣に就任した際、巣鴨で服役中に刑場に向かうA級戦犯を目の当たりにした経験から死刑執行に否定的な立場をとり続けた。賀屋が法務大臣だった1964年(昭和39年)は日本の近世以降初めて死刑が実施されない年となった。政界引退後はフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。88歳にて死去。

臥薪嘗胆については、10月13日に天羽英二外務次官が秀逸な意見書を提出しています。そこには当時の外務省の考え方が色濃く反映されています。少々長くなりますが、引用します。

独ソ戦で、もしドイツが失敗したら致命的な打撃となるだろう、英は米の援助により長期戦が可能だから英独戦の帰趨(きすう)は分からない。蔣介石政権崩壊の見込みはなく、彼はいよいよ英米に依存して抗争を続けるだろう。英米蘭の対日経済断交と包囲に直面して、大東亜共栄圏の確立は困難となる。

日米戦争となっても、三国同盟によるドイツの援助は精神的なものに過ぎず、米国は決戦を急がず長期戦となるが、この間西欧の戦争が終わるか、英独の妥協がなれば、日本は孤立無援の窮地に立ち最悪の事態も覚悟すべきである。

今や日本は資源獲得の道なく、経済の根幹は漸次枯渇しようとしている。一部に「座シテ死センヨリハ乾坤一擲(けんこん-いってき)戦ッテ死地ニ活路ヲ求ムル」という議論があるが、蘭印に武力を行使しても石油設備は破壊され、復旧、開発及び輸送の難問題がある。

持久戦に入れば国力いよいよ消耗し、日本は疲労困憊(こんぱい)の結果、国際関係の決定に対して発言力を失う恐れがある。現在の最緊要事はあくまで国力を保存して、将来有事の際にこれを発揮せしめることである。

したがってこの際、日本が進んで武力進出を図って国力を消耗したり、また国家の運命を欧州戦争の勝敗に賭けるのは極めて危険である。宜(よろ)しく隠忍持久、実力を涵養(かんよう)し、日米交渉により満州国の承認を獲得し、日中戦争を解決してさらに仏印に余力を伸ばし、将来の南方政策の基礎を固めるべきである。

日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用(改行は筆者)

ここで展開されている臥薪嘗胆論は、今日から振り返っても極めて理性的といえます。

日米交渉(23/36)海軍の変節がもたらした開戦への道8
百度百科:天羽英二 より引用
【 人物紹介 – 天羽英二(あもう えいじ) 】1887(明治20)年 – 1968(昭和43)年
大正-昭和時代の外交官。外務省情報部長のとき、日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は日中の特殊関係を考慮すれば「主義として之に反対せざるを得ない」と述べた非公式談話「天羽声明」を発表。中国・欧米の反発を招いた。日独伊三国軍事同盟締結時の駐イタリア特命全権大使。大東亜戦争中は外務次官や内閣情報局総裁を務めた。戦後A級戦犯指名を受け、巣鴨拘置所に勾留。GHQにより公職追放の後、釈放。公職追放解除後は財団法人日本国際連合協会副会長兼事務局長・文部省日本ユネスコ国内委員会委員等を務めた。

実際は電撃的な侵攻作戦の成功により蘭印の石油施設の破壊は免れたものの、輸送に問題が生じたことも、ドイツの降伏によって日本が孤立し最悪の事態に陥ったことも、その後、天羽次官の指摘した通りの歴史をたどっています。

しかし、陸海軍統帥部はアメリカから先制攻撃を仕掛けてくる恐れはないとする主張に強く反発しました。

今日から振り返れば、臥薪嘗胆は十分に説得力をもちます。ですが、石油の枯渇が迫っている当時にあっては、臥薪嘗胆の末に明るい未来を想像することは困難でした。

日本が臥薪嘗胆を選んだとしても、アメリカが石油などの資源を日本に供給してくれる保証は何もありません。現在貯蔵している石油を使い果たした後に、アメリカが外交条件を緩和するとは常識からしても考えにくいことでした。

石油が底をついてからアメリカに攻められれば、日本は戦うことなく降伏するよりありません。陸海軍統帥部はアメリカからの先制攻撃を心底恐れていました。

アメリカからの先制攻撃はないと主張する東郷外相に対して、永野軍令部総長は「来ラザルヲ恃(たの)ム勿(なか)レ」と孫子の言葉を引用し、油断してはならないと戒めています。

結局のところ、臥薪嘗胆の果てにアメリカに攻められて亡国へと至る悪夢を、当時の軍部は振り払うことができませんでした。開戦よりも臥薪嘗胆の方が危険性が高い、と判断されたのです。

論争の果てに賀屋蔵相が「然ラバ何時戦争シタラ勝テルカ。」と問いただすと、永野は強い口調で「今!戦機ハアトニ来ヌ」と断言しています。

臥薪嘗胆によって明らかに亡国へと至るシナリオが頭から離れないことに対して、開戦によって南方の資源を確保し長期戦に持ちこむという選択肢には、わずかな希望が残されていました。

こうして臥薪嘗胆を旨とする第一案は否定され、真っ先に選択肢から振り落とされることになったのです。

- 即時開戦をめぐる攻防 -

次に討議されたのは即時開戦の第二案についてです。参謀本部からは即時開戦決意を固め、今後は偽装外交を続ける主張が為されました。

これに対して東郷外相が強く反発しています。東郷は「緒戦の成功のみに期待をかけるのは間違っている、戦争は九十九度勝っても最後の一勝に敗けた者が敗者となるのだから、緒戦での見込みだけで開戦を決意すべきではない」といった趣旨のことを述べ、「戦争が不利に終るが如き懸念がある場合には、陰忍自重して対処する必要」があると開戦に真っ向から反対しています。

しかし、軍部は様々な楽観的な見通しを述べ、東郷の論を退けました。軍事に関しては専門家である軍人と軍事に疎い文官とでは、説得力に違いが生じるのは仕方のないことです。軍事に関する資料は軍部が独占しているため、東郷が正確に反論できるはずもありません。

たしかなのは三年目以降の戦局に希望を持てないことでした。ことに南方からの物資の輸送ルートを確保できないとの見通しは、論理的に見て戦争回避を促すに十分な論拠でした。東郷外相もそこを突きましたが、他の誰もが三年後の状況を自ら判断することを避ける発言を繰り返すばかりです。

なかでも鈴木企画院総裁が、戦争に踏み切った方が物資は好転すると事実に基づかない発言をしたことは、軍部を勢いづかせました。

三年以降の見通しが暗いことを十分に知っていながらも、参謀本部は強硬論を主張してはばかりません。

結局、開戦やむなしと判断した陸軍参謀本部と海軍の決意を、東郷の弁だけで変えることはできませんでした。

そこで東郷は最後の外交努力を行いたいと述べ、外交には成功を見込めるだけの期間と条件が必要だと主張しました。

即時開戦となる第二案だけは何としても避けたい東郷としては、やむを得ない決断だったといえるでしょう。外交に望みを託す東郷の意見は参謀本部以外の同意を得ることに成功し、第二案は退けられることになったのです。

こうなると最後に残された第三案が有力視されるのは当然の成り行きです。即ち「戦争決意のもとに、作戦準備と外交を並行させる」との方針です。

そこで、これ以後の議題は交渉の期限をいつにするかに絞られることになりました。期限を設けることで即時開戦決意は免れたものの、基本的な方向は9月6日の御前会議での決議と重なっていることに注意が必要です。

外交期限に至れば、開戦を決意することになります。

期限をめぐって陸海軍の統帥部の意見は対立しましたが、参謀本部が軟化したことにより、12月1日午前零時とすることで一致しました。この日時までに日米交渉が成立した場合は、武力発動が中止されることも確定しています。

統帥部ははじめ11月30日を期限として主張していましたが、東条首相が一日でも長く外交交渉ができるようにと粘り、12月1日に落ち着いたことは注目に値します。例え一日とはいえ交渉成立に望みを残すことで戦争を回避したい、という東条の心情が表れています。

この会議において、対米交渉案として甲案と乙案が決定しています。これについては後述します。

こうして16時間に及ぶ激論に幕が下ろされ、第三案が新たな国策として決することになりました。

ところが、東郷外相と賀屋蔵相の二人が避戦に向けて最後の抵抗に打って出ます。この続きは次回にて。

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