第1部4章 日米交渉(22/36)当時の日本人エリートが考えた日米戦争の勝率

戦争回避か開戦かを決める上で重要とされたのは、戦争の見通しです。勝てる見込みが高いのであれば戦うも、負ける可能性が高いのであれば避けようとするのは、当然のことです。

連絡会議において、戦争の見通しについては激しく議論されました。その詳細については前回をご覧ください。

今回は事前に行われていたシミュレーションを中心に追いかけてみます。驚くべきことに日米が戦争を行えば日本が必ず負けるとの予測が、すでに示されていたのです。

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

4-8. 戦争回避か開戦か、国策再検討をめぐる最後の激論

その3.日米戦争での必敗は予測されていた

- 秋丸機関の日米総力戦予測 -

日本とアメリカが戦争を行えばどうなるのか、それは日本にとって大きな関心事でした。日本でも日米戦のシミレーションは綿密に行われています。ことに有名なのは、秋丸機関による報告です。

秋丸機関とは、来たるべき米英との総力戦に向けての打開策を研究するために、日本の陸軍省経理局内に設立された研究機関のことです。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」ですが、カモフラージュのために主計将校であった秋丸次朗の名を取って「秋丸機関」と呼ばれていました。

日米交渉(22/36)衝撃の日米戦争必敗予測
陸軍「秋丸機関」が戦後に果たした役割 より引用
【 人物紹介 – 秋丸次朗(あきまる じろう) 】1898(明治31)年 – 1992(平成4)年
大正-昭和期の軍人。最終階級は陸軍大佐。満州の経済参謀として農業を担当、日本人開拓団の導入、定着に力を注いだ。軍務局に転任後、陸軍省に経済戦研究班を創設、班長を命じられる。秋丸機関では、日本陸軍が来たるべき総力戦に備えて各国の国力を調査し、当時の一流の経済学者を網羅した一大シンクタンクとしての役割を果たした。その研究は北進より南進を勧めるなど、日本の国策に大きな影響を与えたとされる。戦時中は経済戦術の教官を兼務、秋丸機関の閉鎖後は比島派遣第16師団経理部長となる。戦後は公職追放となり、解除後に飯野町長を務める。その後、社会福祉協議会の設立に参加、会長として社会福祉に尽くした。享年94歳。

軍務課長岩畔豪雄のもと、秋丸機関には当時の一流経済学者・研究者・官僚が集められ、対米英戦となった際の日本の抗戦力について、物的資源・人口問題・資本力・経済組織・政治機構の観点から分析し、各国の経済力と照らし合わせることで、実際に勝算がどの程度あるのかが検討されました。

秋丸機関が立てた戦略は次の通りです。

「英米合作の本格的な戦争準備には一年余りかかる一方、日本は開戦後二年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。この間、英国の属領・植民地への攻撃、インド洋(および大西洋)における制海権の獲得および潜水艦による海上輸送の遮断の徹底によって、まず輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を屈服させ、米国の継戦意思を失わせて戦争終結を図り、同時に英蘭等の植民地である南方圏(東南アジア)を自足自給圏として取り込み維持すべし」

秋丸機関:wikipediaより引用

大東亜戦争がたどった経過を紐解けば、秋丸機関の戦略のままに事が運んでいたことがわかります。

ただし、戦い方を指南した戦略構想と最終的な勝敗予測とは、まったく別物です。当時の最高頭脳による高度な分析を経て秋丸機関が到達した結論は、陸軍にとって好ましいものではありませんでした。

秋丸機関の出した結論については以下の通りです。

秋丸機関の報告は41年7月2日に行われたが(ただし有沢によれば9月末となっている)、その結論は「日本はここで英米との戦争は絶対に出来ない、したら一年か二年のうちに日本の戦力は尽きる。そんな戦力で英米相手に戦争してはいけない。そこで英米はドイツに任せておきなさい。ロシアもドイツに任す。ドイツと英米といっぺん戦ってもらって、疲れたときに初めてどっちか強い方へ味方したらいい」というものであった(脇村義太郎「学者と戦争」『日本学士院紀要』一九九八年、五十二巻第三号)。

日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

実際のところ、対米英戦は秋丸機関の危惧した通りに推移し、戦力の尽きた日本は惨敗を喫することになります。

秋丸機関の研究は、実際の政策に活かされませんでした。なぜなら即時開戦を主張する陸軍にとって、秋丸機関の予測は不都合だったからです。秋丸機関の出した答えが正しければ、そもそも対米英開戦そのものが否定されてしまうだけに、表に出すわけにはいきません。

秋丸機関の報告の際、東条陸相は欠席していたため、杉山参謀総長がその裁定を担当しました。その裁定とは、「非常によく研究をしているが、結論は国策と相反する。したがって、資料は国策上不適当であると思うので、絶対に洩らしてはならない。よって直ちに焼却処分、秋丸機関は解散」というものでした。

本来であれば予め勝ち目があるかどうかをしっかりと考え、その上で開戦を決めるべきところを、はじめに「開戦」の結論ありきで、不都合な情報を握りつぶすのが当時の陸軍のやり方でした。

戦後、秋丸機関を率いた秋丸次朗は『朗風自伝』にて、このときのことを次のように綴っています。

「説明の内容は、対英米戦の場合経済戦力の比は、二十対一程度と判断するが、開戦後二ヶ年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以降はわが経済戦力は下降を辿り、彼は上昇し始めるので、彼我戦力の格差が大となり、持久戦には堪え難い、といった結論であった。すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては、都合の悪い結論であり、消極的和平論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜した」

世界有数の軍事大国に成長したとはいえ、日本とアメリカの総合力には大きな差がありました。秋丸機関に代表されるように、無謀な戦争は避けるべきだとの冷静な意見も多数聞かれましたが、戦わずして降伏するよりは一戦交えた方が望みがあると信じる陸軍首脳陣は、聞く耳を持たなかったのです。

- 総力戦研究所による日米戦争必敗予測 -

日米戦争のシミュレーションは海軍でも図上演習として幾度も繰り返されています。期待に反して、その結果は絶望的といえるものでした。緒戦の勝利は見込めても日本が次第に制海権を失い、資源を運ぶための民間の船舶のことごとくが米海軍によって沈められるとの予測を得ていました。

だからこそ海軍では非公式ながら、対米戦に自信がもてないと漏らしたことは前述の通りです。

実は軍部ばかりではなく、内閣総理大臣直轄の機関として設立された総力戦研究所においても、日米戦争のシミュレーションが行われています。各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリート36名が集められ、日米戦争を想定した総力戦机上演習が1941年の7月から8月にかけて行われました。

机上演習の結果については、8月27・28日に首相官邸において、近衛首相と東条陸相の面前にて報告されています。

石油獲得のために蘭印に侵攻するも対米戦は避けるという想定からはじまったシミュレーションでは、フィリピン近海上で米軍の妨害を受けたことから、やむなく日米開戦の経過をたどります。

その結果は次の通りです。

その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。

総力戦研究所:wikipedia

シミュレーションとはいえ、戦争終末期のソ連参戦を言い当てるなど、その予測が極めて正確であったことがうかがえます。

総力戦研究所については猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』に詳しく書かれています。興味がある方には一読をおすすめします。

総力戦研究所による精緻な予測もまた、秋丸機関の報告と同様に闇に葬られました。

東条陸相は総力戦研究所の予測について、次のように講評しています。

「諸君の研究の労は多とするが、これは飽くまでも机上の演習であって実際の戦争は君たちの考えているようなものではない。日露戦争も日本は勝てると思ってやったのではない。戦争というものは計画通りに行かない、意外なことが勝利につながる。諸君の考えは机上の空論とはいわないが、意外性の要素が考慮されていない。なおこの演習の経過を軽はずみに口外してはならない。

日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

秋丸機関の報告にしても総力戦研究所の報告にしても、日米戦争を行えば日本が必敗するとの予測が出されていました。しかも、実際に起きた日米戦争の経過をたどれば、どちらの研究結果にしても極めて正確であったことがわかります。

しかし、それがどれだけ正確な予測であろうとも、すでに開戦に向けて走り出した陸軍にとって公にしてはならない情報でした。日本必敗の事前予測が為されていると国民が知らされたのは、戦後になってからです。

このような状況下において、戦争回避か開戦かを判断するために日米開戦後の見通しを検討してみても限界があります。

勝算が見出せないなかで開戦に踏み切るためには、日本が負けるという不都合な予測や情報のことごとくを闇に葬るよりなかったのです。

- 海上輸送能力の予測 -

対米英戦の見通しについて、議論の中心となったのは海上輸送の成算についてです。

日本が開戦に踏み切るのは石油などの南方資源を確保し、本土に届けるためです。たとえ蘭印の攻略が成功しても、獲得した資源を本土まで安全に輸送できなければ、長期持久戦を戦うことはできません。海上輸送能力を維持できるかどうかを見極めることは、戦争回避か開戦かを決める上でもっとも重要な要素でした。

海上輸送能力を決めるのは、輸送船舶の数です。戦争が始まれば当然ながら輸送船舶は狙われ、大量に撃沈されます。一方、新たに造られる輸送船舶も増えます。失われる船舶と新造される船舶の差が、海上輸送能力を左右します。

その予測は、日本が極めて不利であることを物語っていました。<注釈- 4-8-1>

<注釈- 4-8-1>
9月6日の御前会議では、輸送船舶の損耗率は年あたり10%と見積もられていました。そうであれば海上輸送能力については問題ないため、開戦してもやっていけると判断されたのです。

ところが 10%という数字には根拠がなく、極めて楽観的な予測であることが、あとからわかってきました。海軍では綿密なシミュレーションを繰り返した末に輸送船舶の撃沈が甚大になるため、対米戦に自信なしと非公式に漏らしたことは前述の通りです。

再検討が決まると、海軍軍令部は年間消耗量が80~110万トンと推定されると修正しました。対して新造見込みは年間60万トンとされました。

つまり、差し引き年に20~50万トンの船舶が減少していくと予測されたことになります。当時の総船舶量は650万トンです。このうち280万トンが陸海軍によって徴用されていました。

戦争を継続遂行するための国力を維持し、なおかつ国民生活に必要な分を確保するためには、民需用船舶300万トンを常時使用できることが必要とされました。

しかし、戦争三年目からは最低限必要とされた民需用船舶300万トンを割るとの予測が為されていました。すでに、この時点で客観的に判断するならば、開戦は不可能と結論づけられてもよさそうなものです。

参謀本部でも「此くして決意は益々困難となるべし」と、前途を悲観していた様子が『機密戦争日誌』に綴られています。

しかし、なぜか連絡会議では、これ以上の立ち入った議論はされませんでした。杉山参謀総長は次のように発言しています。
「物の不足は状況の推移を見て機を捉え、且作戦の妙とを以て補うことが出来る。算盤通り物が無いからとて、戦争が出来ぬと言うことはない」

海上輸送能力が失われると予測されるなか、そうした現実から目を逸らし、開戦への理屈づけが無理やり為されています。

果たして、ほんとうに物がなくても戦争はできたのでしょうか?

「物が無いからとて、戦争が出来ぬと言うことはない」との無責任な言葉が招いた結果は、昭和20年8月の有り様に集約されています。

すべての戦闘が終わったとき、日本海軍に残されていた艦艇は戦艦一、空母二、巡洋艦二、駆逐艦三十二、潜水艦五十、海防艦八十、その他二艦のみです。航行能力は残されていたものの、石油がないため動ける艦はひとつもありませんでした。

実際には物(石油)がなければ、戦争はできなかったのです。

- 曖昧なまま終わった再検討 -

10月30日まで行われた再検討の過程では、南方資源を確保したあと海上輸送を確保し、長期持久戦を戦えるとの合意を得られませんでした。

海軍が長期戦に自信がもてないこと、実際に長期戦を戦えるだけの物資の輸送が行えるかとうか疑問が残ることなど、問題は山積みでした。

こうした会議のもどかしい進行ぶりを見て、参謀本部は次のように『機密日誌』に綴っています。

「先ず決心して然る後、国力的能否に関し検討し、出来る様に国家の方向を定むべき時期にあるにも拘らず、決心を確立することなく、出来るか出来ぬかで小田原評定をなしあるが現状」

まずは開戦を決議し、戦争が行えるように国家の方向を定めるべきだと主張しています。これでは開戦を前提として、そのための辻褄合わせをあとから行うも同然です。

現状を正確に分析した上で戦争ができるのかどうかを判断するべきところを、先に開戦ありきとして都合の良いデータだけを取捨選択するのであれば、本末転倒以外のなにものでもありません。

しかし、長期戦が可能かどうかの議論が詰められることなく曖昧なまま終わったことにより、連絡会議は参謀本部の「まず開戦あるべし」の諌言(かんげん)をなぞるかのように、このあと開戦へ向けて動き出すことになります。

事態が急変したのは、連絡会議の最終日にあたる10月30日でした。

いったい何があったのでしょうか?

この続きは次回にて。

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