レキシジン 4章「大戦へのカウントダウン」 1941年 戦争回避のための日米交渉 #74 9月6日の御前会議 昭和天皇が歌に託した平和への想い

#74 9月6日の御前会議 昭和天皇が歌に託した平和への想い

日本国内において対米開戦論が声高に叫ばれるようになった経過について、前回は紹介しました。今回は日本の開戦決意が国策として定まった9月6日の御前会議を中心に追いかけてみます。

「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

日米開戦までのカウントダウン

4-5.日本の開戦決意

その6.9月6日の御前会議

- 戦争の見通し -

国策として対米開戦の決意を固めるか否かを決める重大な御前会議が、9月6日に開かれました。

● 開戦まであと93日 = 1941年9月6日

軍部からは戦争になった際の見通しについて、報告されています。永野軍令部総長は日本国内の物資が次第に減少しているなか、敵側は物資に恵まれ、ますます強くなっていることを述べ、今なら戦勝のチャンスがあるものの時間が経てばもはや勝機がなくなることを強調しました。

「九月六日御前会議質疑応答資料」には、さらに軍部が次のように報告したと記されています。

「対英米戦争ハ長期大持久戦ニ移行スベク、戦争ノ終末ヲ予想スルコト甚ダ困難ニシテ、トクニ米国ノ屈服ヲ求ムルコトハ先ズ不可能ト判断セラルルモ、我ガ南方作戦ノ成果大ナルカ、英国ノ屈服等ニ起因スル米国世論ノ大転換ニヨリ、戦争終末ノ到来必ズシモ絶無ニアラザルベシ。」

ここでは先に杉山参謀総長が天皇に奉答したような短期必勝という楽観論は排除され、長期戦・総力戦となることは必至であり、そうなると国家総力からしてもアメリカを負かすことはできないと、軍部も素直に認めています。

されども、開戦直後の南方作戦において大戦果をあげるか、あるいは他力本願的にドイツがイギリスに勝利することでアメリカ国民の戦意喪失がかなえば、勝つ見込みはゼロではないと述べています。

ほぼ勝てることが期待できそうにないあやふやな言葉ですが、当時の状況からして勝って戦争終結となる場面を思い描くことさえできない以上、いかんともしがたいことでした。

- 「四方の海」に託された天皇の思い -

御前会議で議題となったのは、国策の順番についてです。「帝国国策遂行要領」案では第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に十月上旬に至るも交渉のまとまらざる場合は開戦を決意す、になっています。

これでは戦争が主であり、外交交渉が従であるとの印象を拭えません。そこで原枢密院議長は「この案を見るに、外交よりむしろ戦争に重点がおかるる感あり。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたし」と質問を投げかけています。

日米交渉 9月6日の御前会議イメージ画像3
wikipedia:原嘉道 より引用
【 人物紹介 – 原嘉道(はら よしみち) 】1867(慶応3)年 – 1944(昭和19)年
明治-昭和時代前期の弁護士・政治家。農商務省に入省するも 4年で官を辞し、弁護士に転じる。在野法曹界における民事訴訟の第一人者として脚光を浴びた。田中義一内閣の司法相に党外から起用され入閣。刑を加重する治安維持法改定をすすめた。その後、中央大学学長などを経て、開戦前後の枢密院議長を務める。日独伊三国軍事同盟締結について枢密院で審議された際、三国同盟参加に反対、松岡外相を批判した。独ソ戦が勃発すると7月2日の御前会議において松岡外相とともに対ソ開戦を主張。開戦に際しては木戸内大臣と通じて岡田啓介、米内光政ら重臣たちと連絡を取り、戦争回避に努力した。枢密院議長在職中に死去、享年77歳。死に際し、男爵位が追贈された。戦後、華族制度が廃止されたため、原は日本最後の華族となった。

政府を代表して及川海軍大臣が「第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではない」と説明しましたが、統帥部からは誰も発言しようとしません。

長い沈黙を破ったのは、昭和天皇でした。

「只今の原枢相の質問はまことにもっともと思う。これにたいして統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」と発言した天皇は、懐中より紙片を取り出し、これを読み上げました。

四方の海みなはらからと思ふ世に
など波風の立ちさはぐらむ

これは日露戦争開戦当初に開かれた御前会議にて、明治天皇が詠んだ歌です。

歌の意味は、次のごとくです。

「世界は全てが兄弟姉妹である平和な時代であると思っているのだが、どうして波風が立つような動乱の兆しがみえるのだろうか。」

歌から感じられるのは、「平和への思い」です。「世界はすべて同胞なのだから、戦争などするな」との天皇の思いが託されています。

この歌を二度詠み上げた後、天皇は「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」と、言葉をつなぎました。

天皇自らが御前会議にて発言するのは、異例中の異例です。御前会議とは天皇の御前で行われる会議ですが、昭和になって以来、慣例により天皇の発言は許されていません。天皇の役割は黙して会議の行方を見届け、最後に裁可を与えるのみでした。

ところが、戦争か否かを決める大事な会議にて、天皇が歌に託して自らの意思を示したのです。

予期せぬ事態の成り行きに、もっとも大きな衝撃を受けたのは軍部でした。天皇が歌によって戦争に反対し、あくまで外交交渉によって平和を望む意向を示したからには、軍部としても従わざるを得ません。

結局、軍部は御前会議にて外交交渉に尽力することを表明しました。政府と統帥部が一致して最後まで外交努力を尽くすと誓うことで、「帝国国策遂行要領」はそのまま承認される運びとなったのです。

こうして10月上旬に至っても日本側の要求が貫徹する目処が立たない場合は、ただちに対米英蘭開戦を決意することが、国家意思として正式に決定されました。

日米交渉 9月6日の御前会議イメージ画像2
wikipedia:昭和天皇 より引用
【 人物紹介 – 昭和天皇(しょうわてんのう) 】1901〈明治34〉年 – 1989〈昭和64〉年
第124代天皇(在位: 1926〈昭和元〉年12月25日 – 1989〈昭和64〉年1月7日)。名は裕仁(ひろひと)。日本の皇太子として初めての外遊でヨーロッパを訪問。帰国後、大正天皇重病のため摂政宮に就任し、代わって公務につく。大正天皇崩御により践祚(せんそ)、「昭和」と改元。大東亜戦争の開戦に際し「宣戦の詔書」を発する。多くの歴史学者が「当時の憲法で天皇は最高決定権をもっていたが、実際には政府や軍が決定した方針を承認するにすぎなかった」と指摘している。日中戦争についても日米開戦についても、強く躊躇(ちゅうちょ)の態度を表明するも、正規の手続きによって裁可を求められたものについては、最終的に裁可を与えるよりなかった。

しかし、ポツダム宣言受諾か本土決戦かをめぐり内閣と統帥部が分裂し、態度決定ができなかった際は、はっきり受諾の意思を表明し、最終決定に決定的な役割を果たし、日本を終戦に導いた。8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり、これによって円滑な降伏が実現した。戦後は「人間宣言」を発することで天皇の神格を否定し、全国各地を巡幸して再建に働く国民を激励。日本中で熱烈な歓迎を受けた。日本国憲法にて「国民統合の象徴」と位置づけられ、以後その役割を忠実に果たした。生物学者としても知られる。87歳で逝去。在位期間は62年で歴代最長。天皇として最も長命だった。

- 対米英蘭開戦の目的と戦略 -

日本が米英蘭との開戦を決意するにあたり、戦争の目的として設定したのは、「東亜に於ける英国及米国の主要なる根拠を壊滅」すると同時に、「自存自衛」の態勢を確立し、これを利用して「支那屈伏」を図ることでした。

アメリカが石油の供給を止めた以上、日本が生き残るためには蘭印を占領し、石油を確保するよりありません。蘭印への武力行使を米英が黙って見過ごすはずもないため、米英蘭との戦争が勃発することになります。現在、中国と戦争中のため、そうなると米英蘭中の連合国と同時に戦うことになります。

そこで陸海軍は、蘭印・香港・マレー・フィリピン・グアムへの同時攻撃を計画しました。さらに海軍ではハワイの米国艦隊を攻撃する計画を立案しています。これらを一斉攻撃することで機先を制して自存自衛圏を確保し、長期戦に耐えられる態勢を整えてから、まずは中国を屈服させようとしたのです。

この計画を実行する上で、不安要素として残ったのはソ連の動向です。一斉攻撃が想定された南方作戦については米英蘭による反攻は恐れるに足らないと判断されたものの、米英がソ連と手を結び、ソ連軍を動かすとなれば、事は重大です。

北方からソ連の大軍が押し寄せる事態となれば、日本の兵力は分断されるよりなく、南方作戦にも支障をきたします。

この最悪のシナリオを避けるためには、南方作戦を冬の間に終わらせる必要がありました。冬将軍はソ連を外敵から守る役目を果たすと同時に、ソ連軍による大規模軍事行動も阻みます。

そのため、ソ連軍が動けない冬を利用して南方作戦を敢行し、終了させることが望ましかったのです。11月に開戦が予定されたのは、こうした背景も大きく影響しています。

蘭印・フィリピン・マレー・英領ボルネオ・グアム・香港の占領まで、およそ5ヶ月かかると計画されました。

- いささか唐突にして議の熟せざるものあり -

開戦については昭和天皇の戦争責任を問う声がありますが、統帥権が与えられていたとはいえ、明治憲法下においても天皇自らが政策を決定するような政治体制にはなっていません。御前会議にて歌を通して意志を伝えるのが、やっとでした。

戦争を避ける責任は、近衛首相に課すべきといえるでしょう。しかし、近衛首相はなぜか、大本営政府連絡会議・閣議・御前会議のいずれにおいても、対米開戦決意について異議を唱えたり、反対の意思を表明していません。

日米首脳会談を通して命を賭けてまで戦争を避け、和平の道を切り開くと周囲に言明していた割りには、腰が引けた対応と言わざるを得ません。

開戦決議となった9月6日の御前会議は、開戦までの経過をたどる上でとりわけ重要な意味をもっていますが、後に近衛はこの会議を軽視し、不用意に同意してしまったと綴っています。

木戸日記においても「いささか唐突にして議の熟せざるものあるやに思わる」と記されています。

今日から振り返ってみても、9月6日の御前会議にて開戦決議が為されるという流れは、性急過ぎる感を拭えません。

あたかも日本全体が思考停止に陥った結果として、開戦決議へと至った印象さえ受けます。

こうした反省に基づき、事実、9月6日の御前会議で決まった開戦決議をもう一度見直そうとする動きが、後に起きています。

それでも、当時を生きた日本人の多くは「戦うも、戦わざるも」との思いを胸に秘めていただけに、やむを得ない選択であったとも言えるでしょう。

- 戦うも、戦わざるも -

御前会議の後、統帥部を代表して永野軍令部総長は悲痛な胸の内を明かしています。

「戦わざればと政府は判断されたが、戦うもまたにつながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」

永野の言葉には、当時の軍人の心中が代弁されています。

対米開戦によって多くの犠牲者が出たことを、私たちは知っています。それだけに永野の発言を無責任とそしる向きもあるかもしれません。

しかし、当時と今とでは、常識や価値観が異なっていることも、また事実です。今日の常識で当時の世界をはかることは、けして正しいこととは言えないでしょう。

たとえば、「平和」についての考え方です。

今日では「平和であること」がなにより大切な価値観になっていますが、もともと不平等が前提の世界にあっては、平和がそのまま幸福につながるとは限りません。

たとえば当時のインドやベトナム、インドネシアやマレーシアを見てみれば、表面的には平和が保たれているものの、過酷な植民地支配を受けている現地の人々が幸せであったはずもありません。

人種差別が当たり前に吹き荒れていた時代にあって、軍事大国に成長した日本がひたすら平和を志向し、戦うことなく膝を屈したとなれば、その果てに滅亡を思い描くことは、ごく自然なことでした。

当時の日本が今さら欧米の植民地になるとは想像しがたいものの、もはや戦うことができない状況に陥った後では、米英のなすがままに身を委ねるよりありません。

それでは米英の慈悲にすがって生きるも同然です。当時の米英は現在の米英とは、まったく異なります。人種差別を露わに、日本に対して過酷な要求を突きつけてくる可能性を捨てきれません。

当時の日本が有色人種の国家としてただ一カ国、白人世界から一目置かれていたのは、ひとえに軍事大国であったからこそです。経済力では欧米より遙かに劣っていました。

欧米に一度膝を屈すれば、戦後の日本がそうであったように軍事的な解体を促される危険もありました。

軍事大国として立ちゆかなくなれば、大国としての地位を失い、小国化することは目に見えています。次第に先細りする果てに、亡国を思い描くことは極めて自然なことです。

こうした背景から、「戦うも、戦わざるも」の言葉が引き出されました。

どちらを選んでも亡国につながるかもしれませんが、戦えば万に一つでも勝機をつかめる可能性が残ります。もとより勝てる戦いではないとしても、戦うことなく亡国へと至るよりも戦った果てに亡国へと至ることで、日本人としての矜持を保ち、後世の再興を期すことができるのだと、永野らは考えたのです。

その思いは、戦後のマレーシアやインドネシア、ベトナムなどに受け継がれました。日本軍が去った後、英仏蘭はそれら旧植民地を再び支配するために軍を差し向けました。

その際、マレーシアやインドネシア・ベトナムの人々は、平和を求め、戦うことなく白人の支配を受け入れるか、それとも戦って独立を目指すかの二者択一を迫られました。

彼らが平和に背を向けて戦うことを選び、多くの犠牲の果てに独立を勝ち取ったことは、戦後の歴史が証明しています。(この経過については各国ごとに、後に記事にする予定です。)

日本にしても他のアジア諸国にしても、平和を求めることだけが正義ではなかったという時代背景は、理解しておきたいものです。

9月6日の御前会議によって英米蘭との開戦決議が決せられ、これ以降の日本の関心は、10月上旬までに目処が設定された日米交渉へと集中することになります。

なお、御前会議で決せられた第三項には「三、10月上旬頃に至っても要求を貫徹し得る目途なき場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する」とあります。別紙に記された日本側の「要求」については、<注釈- 4-5-1>を参照してください。

その7.東条陸軍大臣は譲らず

- 米英側に立てない理由とは -

日本側の要求を見る限り、この時点ではまだ陸軍が強硬な姿勢を見せており、日中戦争や仏印進駐において譲歩する気がないことを見てとれます。

御製(天皇の作る詩文や和歌)を詠みあげることで託された、天皇の「外交に尽力せよ」の意思は、東条陸軍大臣を動かすには至らなかったようです。

9月7日には皇族の東久邇宮と東条による会談が行われています。この会談は近衛首相が東条の説得を東久邇宮に依頼したことで実現しました。

● 開戦まであと92日 = 1941年9月7日

wikipedia:東久邇宮稔彦王 より引用
【 人物紹介 – 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう) 】
1887(明治20)年 – 1990(平成2)年
大正・昭和期の元皇族・軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第43代内閣総理大臣。陸軍士官学校を卒業後、フランス留学を経て陸軍航空本部長となる。第2軍司令官として徐州会戦・漢口攻略戦に参加。1941年に本土防衛総司令官となった。開戦前、昭和天皇に立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇大権によって陸軍を食い止めた方が良い、と助言したとされる。対米戦争回避を主張するリベラル派の皇族として知られる。第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がったが、実現しなかった。1941年9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東条に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走。大戦末期に起きた宮城事件では、断固交戦を唱える「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされた。戦後は内閣総理大臣に任命され、「日本軍の武装解除」を成し遂げる。1945年8月17日に一億総懺悔を呼びかけるラジオ放送を行い内外に波紋を広げた。一億総懺悔は「国家政策の誤り」を認めるとともに、「国民の道義的責任」についても言及するものだった。これは戦争犯罪に関してあくまでも日本による自主的な裁判の開廷を目指す運動であり、天皇の戦争責任回避を狙いとしていた。対してGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判(東京裁判)を強行した。首相辞任後に公職追放。皇籍を離脱した。その後は平民として様々な商売に手を出すも、いずれも失敗。その理由として曲がったことが大嫌いであったため、不正を一切しなかったことが指摘されている(当時は闇市など、不正が当たり前の時代だった)。102歳にて死去。

譲歩を迫る東久邇宮に対して、東条は陸軍としての見解を滔々(とうとう)と語っています。

東条はアメリカの要求を突き詰めれば、日本がドイツ・イタリアの枢軸国側から離れて英米の方に入れ、ということだと喝破します。

しかし、仮に日本がアメリカの要求に従ったあと、どうなるのかについて、陸軍内に根強く残る予測を東条は披露しています。すなわち、ドイツが敗れた後、米英が日本打倒に向かってくることは間違いなく、そうなると孤立した日本には勝機がまったくない、との論です。

米英と日本では、目指すものがまったく違います。ことにアジアの植民地を放棄しようとしないイギリスと、アジアから白人を追い払いたい日本とでは利害が真正面から衝突するだけに、将来の対立は避けられそうにありません。

その際、アメリカがまたしてもイギリス側に立つことは容易に推測できます。ドイツが敗れた後の世界で、日本を支援してくれる国は皆無です。

ドイツが消えたことで全軍を対日戦に向けられるようになった米英と戦ったのでは、日本の勝算は今以上にゼロです。

だからこそ、今の時点で米英と組することはできないのだと、東条は述べました。

- 幾百万の英霊のために -

さらに東条は、アメリカが日本に対して次の5つの要求をしていると、わかりやすく整理しています。

1.仏印からの撤退、2.中国全土から撤退して日中戦争以前の状態に復すること、3.米英の仲介を受け入れ蒋介石と全面和平を結ぶこと、4.中国における門戸開放・機会均等の承認、5.以上の条件に応じれば、日本が必要とする物資を供給する、の5つです。

これらの条件について、日本が譲歩できない理由について東条は次のように述べています。

しかしこのような条件は、戦争で生命を捧げた尊い英霊に対して絶対に認められない(これは東条が撤兵反対をいうときの常套語である──引用者)。日米会談が成立しても、平和が続くのはここ二、三年だけで、米国はその軍備が完成した暁には、日本に必ず戦争を仕掛けてくるだろう。

陛下が日本の不利益を忍んでまでも、どうしても日米国交を調整されようと考えておられるのなら、そのことが国家百年の為に不利であると考える東条は、どこまでも陛下を御諫(いさ)め申し上げなくてはならない。それでも陛下が御聴きにならなければ、辞職するほかはない。これこそ陛下に対する忠節を全うする所以である。

『日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

日中戦争において陸軍は、多大な英霊の屍を積み重ねてきました。その死を無駄にしないためにも、目的を達せないまま撤兵することはできないと、東条は突っぱねています。

それでも日本側が大幅に譲歩することで国交調整に尽力せよと言うのであれば、「陛下を御諫(いさ)め申し上げなくてはならない」とまで述べています。

- 東条への辞職勧告 -

東条の言葉に耳を傾けていた東久邇宮は、フランス留学中に第一次大戦時のフランスの首相クレマンソーとペタン元帥から、ある忠告を受けたことを話しています。

それは次のような忠告でした。

将来米国は日本の方から戦争を仕掛けるような手を打ってくるに違いないが、日本が短気を起こして戦争を始めたら、日本は底力のある米国に必ず負ける。だから米国の手に乗って戦争しないように我慢すべきだ

『日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

クレマンソーの忠告は、真珠湾攻撃から始まる対米戦を見事に予言しています。結果的に日本はアメリカの挑発に乗り、日本の方から戦争を仕掛けて敗戦へと至りました。

当時の日本では、アメリカが日本の方から戦争を仕掛けさせたがっているとの認識は、ほとんどもたれていません。この視点への配慮があれば、その後の歴史はまったく違ったことでしょう。

結局、東久邇宮と東条の会談は実を結ぶことなく、平行線をたどるばかりです。ついに東久邇宮は東条に対し、天皇と首相が日米交渉を成立させたいといっているのだから、陸軍大臣としては従うべきだと諭し、そうでなければ辞職すべきだと言い切っています。

それでも東条は自説を曲げようとはしません。陸軍を代表する陸軍大臣の立場からして仕方ないとはいえ、譲歩に応じる気配を見せない東条の強硬な態度は、日米交渉の行方に暗雲をもたらすことになります。

しかし、歴史は意外な展開を見せます。これほどまで譲歩を拒んだ東条が、しばらく後には180度立場を逆転させ、今度は戦争を避けて譲歩を引き出す側へと回ることになるのです。

期日までに要求が通らなければ開戦を決めた日本にとって、最大の焦点となったのは中国からの撤兵問題でした。開戦派と避戦派に分かれ、国内の政局は大きく揺れることになります。緊迫の攻防は次回にて。

<注釈- 4-5-1>
別紙に記された日本側の「要求」の中身について簡略化してまとめると、次のようになります。

1.米英は日中戦争処理に口を出さない、妨害しない
2.英は極東の軍備増強や新たな軍事的権益の設定をせず、日仏印間の特殊関係を承認する
3.米英は日本との通商関係を回復し、その所要物資獲得に協力する

この要求が通った際は、日本は次の約束をする
1.仏印から中国以外の地域に武力進出しない、またソ連が中立条約を守る限りは日本から武力行動はとらない
2.極東平和の確立後に仏印から撤兵する
3.フィリピンの中立保障

日中戦争について、当初日本はアメリカに日中和平の仲介を要請していましたが、この頃には逆にアメリカの介入を排除するように動いています。

しかし、ABCD包囲網に中国が加わっている現状からしても、日中戦争へのアメリカの介入をすべて取り除こうとする要求には、無理があります。

日仏印間の特殊関係を承認させようとする要求も、現状をあまりにも無視しています。崖っぷちに立つ日本側の要求としては、過大すぎる中身と言えるでしょう。

ただし、これはあくまで国内に向けて「アメリカへの要求」をまとめたものに過ぎず、そのままアメリカに伝えられたわけではありません。

アメリカに渡す際には、かなりトーンダウンしています。日仏印間の特殊関係については一切ふれることなく、仏印以上には武力進出しないと明記しています。

中国からの撤兵にしても日中関係が正常化した後、「実現ノ上ハ日支間ノ協定ニ遵(したが)イ、支那ヨリ出来得ル限リ速カニ撤兵スルノ用意アリ」とされました。

野村大使は9月6日に、これをハル国務長官に渡しています。
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ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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