レキシジン 4章「大戦へのカウントダウン」 1941年 戦争回避のための日米交渉 #69 日米首脳会談をめぐる駆け引き。命を賭けた近衛の悲壮な決意

#69 日米首脳会談をめぐる駆け引き。命を賭けた近衛の悲壮な決意

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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日米交渉(10/36)石油禁輸が日本にもたらした事〜帝国海軍の見た夢は、時代を超えて〜

日米開戦までのカウントダウン

前回までアメリカが為した対日石油全面禁輸の謎を追いかけながら、そのことが日本をいかに窮地に追い込んだのかを見てきました。

今回より、石油禁輸を受けた後の日米交渉について紹介します。まずは近衛首相が提唱し、アメリカに申し込んだ日米首脳会談をめぐる駆け引きについてです。

4-4.日米首脳会談をめぐる駆け引き

その1.高まり行く対米開戦論

アメリカによる対日石油全面禁輸に蘭印が同調したことにより石油の枯渇がいよいよ現実的な悪夢として迫るなか、軍上層部が戦争決意なき戦争準備を進めることとは対照的に、陸海軍の中堅層を中心に対米開戦論が声高に叫ばれるようになりました。

石油の供給を絶たれることは、日本にとって真綿で首を絞められるも同然でした。じわじわと息苦しさが増すなか、じっと堪えるだけでは1年も待たずして呼吸困難に陥り、やがて息の根を止められることは確実です。

海軍では第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年以来、20余年にわたって石油の備蓄に努めてきました。石油禁輸までに600万トンもの石油の備蓄に成功しています。

これだけの備蓄があれば平時であれば3年はもちますが、戦時ともなれば艦船や飛行機が激しく動くだけに、1年もつかどうか怪しいところです。陸軍では戦車も飛行機も9ヶ月後には動けない状況に陥ると予測していました。

石油の正確な備蓄量については極秘情報であったため不明ですが、1941年11月に大本営政府連絡会議にて企画院が説明した数値は840万トンでした。

ドイツが開戦時に保有していた石油が、400万トンから450万トンと言われています。1941年7月の時点でドイツはフランスなど侵略した各国の石油を接収したことで、およそ600万トンの石油を保有していました。イギリスの石油備蓄は、ドイツに遠く及びません。

つまり、日米開戦時の日本はアメリカ・ソ連といった石油供給国を除けば、参戦国のなかでもっとも多くの石油を保有していたことになります。

それは日本が長年に渡ってコツコツと石油を蓄えてきた、血のにじむような努力による結果です。国家による「戦略石油備蓄」を行ったのは、世界で日本がはじめてとされています。

ただし、石油を持てる国と持てざる国の差は、悲しいほどに開いていました。日本が20余年にわたり、あらゆる手段を講じて積み上げてきた840万トンの石油は、アメリカの原油生産量のわずか14日分に過ぎなかったのです。

大量の石油を備蓄していたおかげで、全面的に石油の供給を絶たれても、日本が直ちに機能不全に陥ることはありませんでした。しかし、この状態が1年も続けば、その先に緩慢な死が待っていることは確実です。

血気にはやる陸軍に対して、これまで海軍は開戦を抑止する役割を負ってきました。されど1年後には石油が尽きて艦船を動かせなくなるとわかっては、話は別です。ことに海軍部内の中堅を務める大佐や中佐クラスにおいて対米一戦論を求める声は次第に強くなり、彼らを抑えることに首脳部は頭を悩ますことになったのです。

海軍部内で起きた変化に対し、諸手を挙げて歓迎したのは陸軍です。石油の全面禁輸は陸軍内においても、大きな変化を呼び起こしました。石油枯渇の危機は北進派を抑制するとともに、マレーと蘭印の占領を目指す南進派を勢いづかせたのです。

されど、陸続きのソ連に攻め入ることとは勝手が違い、マレーと蘭印を占領するには海軍が動いてくれなければどうにもなりません。海軍が対米戦の決意を固めてくれることは、陸軍内の南進派にとっても好都合だったのです。

かくして陸海軍をあげて対米一戦へと傾くなか、国内の言論機関もまた討米懲英を訴える論客たちが「死中に活を求めるべきだ」と、盛んに国民を鼓舞し続けました。

もはや日本には、2つの選択肢しか残されていません。戦わずして白旗を上げるのか、それとも石油が残っているうちに起死回生の行動に打って出るのかの、どちらかです。

歴史を知っている私たちからすれば、戦わずして白旗を上げるべきだったと思うかもしれませんが、近い将来に自分たちの身に降りかかる災厄について知るはずもない当時の日本人に、そのような判断を期待することには無理があるといえるでしょう。

福田和也著『教養としての歴史 日本の近代〈下〉』で綴られている次の言葉が、当時の日本の状況を能弁に語っているように思えます。
「長年、巨費をかけた艦隊と、猛訓練を重ねてきたスタッフを用いる事をせず降伏する、という理性的な決断をし、それを部下に守らせることの出来る指導者などというものが、人類史のなかに、存在したでしょうか。」

首脳陣にしても、一般の日本人にしても、精強を誇った陸海軍を一兵たりとも動かすことなく、これまで有色人種に対して人種差別を剥き出しにしてきた米英の前に降伏する屈辱に耐えることは、極めて難しい選択でした。

アメリカによる石油全面禁輸という明らかな挑発を受けて、軍部はもちろん日本全体が対米一戦すべしと熱狂の渦に包まれていったのです。

その2.日米首脳会談構想

開戦を支持する声が次第に高まるなか、近衛首相は悲壮な決意を固めます。これまでリーダーシップを発揮することなく周囲に流されてばかりいた近衛首相が、はじめてと言っても差し支えないほど精力的に取り組んだのが、日米首脳会談構想でした。

今のまま事態が進んでいけば、近いうちに日米開戦に至ることは明らかでした。アメリカとの戦争を避けるためには起死回生の一手が必要だったのです。

アメリカとの交渉が暗礁に乗り上げ一触即発の危機に陥った日本を救うには、ルーズベルト大統領と自らが膝を突き合わせて話し合うことで両国にわだかまる誤解を解き、和解を図るよりないと近衛首相は考えました。

今日では首脳会談と聞いてもことさら驚くほどのことでもありませんが、当時はけして一般的なことではありません。なんらかの外交問題を抱える両国のトップ同士が直接会談することで解決を図るという構想自体が、当時としては画期的なことでした。

首脳会談が劇的な効果をもたらすことは、歴史が幾度となく証明しています。今日でも一時は戦争突入が囁かれたアメリカと北朝鮮が、米朝首脳会談を実現させることで緊張関係を一気に鎮静化させたことは、記憶に新しいところです。

近衛首相は8月4日の夜に行われた陸海両相との会談において、日米首脳会談の構想を明らかにしました。そのときの近衛の言動には、首相としての不退転の決意がみなぎっていたと記されています。

● 開戦まであと126日 = 1941年8月4日

その気迫に押されたのか、海軍はその日のうちに賛意を表明しています。陸軍としても海軍が同意したとなれば無下に反対するわけにもいかず、渋々ながらも認めるに至りました。

アメリカとの戦争をなんとしても避けたい意向をもつ天皇にしても、近衛の日米首脳会談構想は意に適ったものらしく、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示を出しています。

近衛は8月5日に木戸幸一に対して次のように決意を表明しています。

(従来の交渉では)双方の真意が徹底しておらぬ憾(うらみ)あり。此のままずるずると戦争に這入(はい)ると云う事は……為政者として申訳ない事と考える。……大統領と直接会て遂に了解を得られなかったと云う事であれば、国民に対しても、真に日米戦止むを得ずとの覚悟を促す事になり、又一般世界に対しても侵略を事とするのではなくして太平洋平和維持の為には此丈(これだけ)誠意を披瀝(ひれき)したのである事がはっきりして、世界輿論の悪化を幾分にても緩和し得る利益あり。

日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

もし首脳会談を経ても合意が得られなかったならば、国民をして「日米戦止むを得ず」と納得させることになり、世界に対しても平和を築くための日本としての誠意を見せたことになる、と冷静に分析していることがわかります。

こうして日本としては政府と陸海軍が一枚岩となり、日米首脳会談の実現に向けて積極的に取り組むこととなったのです。

その3.近衛首相が成し遂げようとしたこととは

では、日米首脳会談によって近衛首相はなにを成し遂げようとしていたのでしょうか?

その答えは多くの証言や手記を通すことで、浮かび上がってきます。近衛が日米首脳会談に託したのは、天皇の威を借りて対米開戦を踏みとどまらせ、日米関係を正常に戻すことでした。

具体的には次のような構想です。ルーズベルトと近衛が会談し、日米和解案をまとめる。それをすぐに天皇に直接送り、裁可を仰ぐ。直後に詔勅(しょうちょく=天皇が公に意思を表示する文書)を出すことで、陸海軍の反対派を抑え込む。

つまり、近衛が思い描いたのはルーズベルトとの会談によって日本が大幅に譲歩し、それを連絡会議にかけることなく直接天皇に渡して裁可を仰ぐという起死回生の一手でした。

通常であれば、日米首脳会談でまとまった和解案について、連絡会議で審議されることになります。日本における事実上の意思決定機関は連絡会議だからです。

しかし、そのような通常の手段を踏んだのでは、和解案が承認される見込みはありません。日米首脳会談によって近衛が日本側の大幅な譲歩をルーズベルトに約束したとしても、それを陸海軍が認めるはずもなく、和解案が否決されることは目に見えていました。

これではいつまで経っても日米間に和平が成立する目処も立たず、開戦への流れを断ち切ることもできません。だからこそ近衛は天皇の裁可を仰ぐことで、トップダウンによって日米和平の道を切り開こうと謀ったのです。

それは、明治憲法で定められた日本の意思決定システムを根本から覆す奇想天外な構想でした。

近衛がこの構想を思い立ったのは、三国同盟を締結した直後、内閣が詔勅を出して異論を封じ込めた過去があったからだと言われています。

三国同盟締結に際しては軍部のなかにも反対派が相当数いました。しかし、天皇の一声がかかると反対の声は直ちに止んだのです。当時の日本人にとって、天皇の意思表示は絶対でした。

三国同盟締結時と同じことを、近衛は日米首脳会談によって再現しようと謀りました。日本側の譲歩に対して陸海軍のなかに反対を唱える声がどれだけ大きかろうとも、天皇が承認したとなれば、もはや肯定するよりないのが当時の日本でした。

その4.命を賭けた近衛の悲壮な決意

近衛が描いた日米首脳会談構想の実現に向けて、日本側では着々と準備が進んでいました。

グルー駐日米大使の戦後の回想には、近衛が次のような内容を語ったことが記されています。「近衛の乗る船には直通無線電話が備えられ、ルーズベルトとの会談によって合意した事項について直接、天皇に報告される手はずになっていた。それに基づき天皇は、直ちに敵対的な作戦の中止を命ずる詔勅を発することになっていた」と……。

これが実現していれば、天皇の詔勅によって日本側の譲歩が決定し、日米間に和平が成立した可能性が高かったと日米の多くの歴史学者が指摘しています。

なぜなら日米首脳会談によって近衛は、当時の状況からすれば想定外ともいえるほどの大胆な譲歩を期していたからです。

近衛に同行する予定だった豊田外相は後年、近衛が「行けば必ずやりとげる積もりで、(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と述べています。

この頃の近衛はなんとしても日米開戦を回避し、首脳会談によって日米間の和平を築く決意を周囲に向けて示していました。

アメリカの求めるままに三国同盟を実質的に破棄し、日中戦争を終わらせて日本軍を中国から撤兵させる覚悟も決めていたとされています。

細谷千博著『日米関係通史』には、近衛首相がルーズベルトに提示する予定だった5つの条件が、グルー駐日米大使の秘書フィアリーの回顧録を通して掲げられています。

(一)米独戦争が起こっても日本は敵対行動をとらない
(二)日米協定成立後十八ヵ月以内に日本軍の中国よりの完全撤兵
(三)仏印からの完全撤退
(四)満州の処理は欧州戦争終了まで延期
(五)条件は「勅諭」の形でラジオを通じて国民に伝えられる

以上の5つです。

これまでの日米交渉を通してアメリカが日本に求めていることを、ほぼすべて満たす内容といえるでしょう。全面譲歩をしてでも戦争だけは避けたいとする近衛首相の覚悟がうかがえる内容です。

そのことは、豊田外相と会談した際、豊田が次の言葉を残したと綴っているグルーの手記からも察せられます。

「日本の歴史の中で(現職)首相の外国訪問は前例がない。しかし、近衛は大統領との会談を実現すると固く決めている。世界を破滅から救いたい、太平洋地域に和平を築きたい、そのためにはいかなる手段も厭(いと)わない。近衛にはそうした強い思いがある」

この言葉からは、これまでの優柔不断な近衛とは人が変わったように、日米首脳会談に賭ける並々ならぬ熱い意志が感じられます。

まさしく近衛は、日米首脳会談に命を賭けていました。当時の社会背景からして、「米独戦争が起こっても日本は敵対行動をとらない」と約束することで三国同盟を実質的に骨抜きにしたり、日中戦争が継続しているにもかかわらず中国からの日本軍の完全撤兵を約し、さらに苦心の末にやっと進駐を果たした仏印からの完全撤退も約すとあっては、軍部としても面目丸つぶれです。

天皇の詔勅が下ったあとでは最早その決定を覆すことはかなわないだけに、軍部や国民の恨み辛(つら)みは近衛個人へ向かうよりありません。もちろん近衛自身、そのことは覚悟した上での決断でした。

このときの近衛に決死の覚悟が見えたことは、多くの側近者の回想に記されています。

たとえば枢密院顧問官の伊沢多喜男は、そこまで譲歩したとなれば「殺されることは決まっている」と近衛に翻意を促したところ、近衛は「命のことは考えない」と決然と言い放ったと綴っています。

近衛の一高時代からの親友として最後までブレーンを務めた後藤隆之助は次のように証言しています。

「近衛は俺にこう言っていたんだ。ぼくは絶対、ルーズベルトと話し合いに行く。話し合いをつけて、日本に帰ってきたら、横浜か横須賀に上陸した瞬間、軍に殺されるだろう。それでも行かなければならない。近衛という男は、そういう時には、断固たるところがあったんだ」

日本はなぜ戦争に二度負けたか―国民不在の政治』大森実著(中央公論新社)より引用

我が身を犠牲にしてでもアメリカとの戦争を回避し、太平の道を切り開こうとする近衛の悲壮な決意を感じさせるエピソードです。

日米開戦を避ける一縷(いちる)の望みは、日米首脳会談に託されたのです。

その5.アメリカが日米首脳会談を拒絶した理由とは

東京からの指示に基づいて野村大使から米政府に対して正式に日米首脳会談の申し入れが行われたのは、8月8日です。ルーズベルト大統領は洋上で行われたチャーチル英首相との大西洋会談に出かけており不在であったため、ハル国務長官に対して為されました。

● 開戦まであと122日 = 1941年8月8日

しかし、ハルの反応は日本にとってけして好ましいものではありませんでした。ハルは「政策ニ変更ナキ限リ話合ノ根拠ナシ」と、はっきりと拒絶の態度を示したのです。さらに「日本ニシテ武力行使ヲ止ムルニ於テ始メテ話合ヲ為スベシ」と、まずは日中戦争や仏印進駐に見られる日本の武力行使を直ちに中止することを求め、話し合いはそれからのことと、日本側の申し入れを撥(は)ね付けました。

日本が歩み寄ろうとする姿勢を見せたにもかかわらず、アメリカが強硬な態度を示したことには原因があります。

折しも8月8日、その日、日本の外交政策についての新たなマジック情報が、米政府にもたらされたのです。

その情報とは、ちょうど1ヶ月前にあたる7月2日の御前会議にて決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」です。

この「国策要綱」には高度な暗号がかけられていたため、アメリカは解読に手こずっていました。それがついに破られ、英訳されて米政府に届けられたのが、奇しくも野村大使が日米首脳会談についての申込みを為した8月8日でした。

まさに、これ以上はないと思えるほどの最悪のタイミングです。

「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」には日本の南進への決意が強く示され、南進を行う上で「英米戦を辞せず」の勇ましい文言が踊っていました。

しかし、それは軍部の本音ではなく、あくまで松岡外相を説得するための、そして北進を阻むための方便に近い言葉に過ぎなかったことは、すでに詳述した通りです。

「国策要綱」は他国に渡す外交文書ではなく、あくまで国内向けに今後の方針を示したものに過ぎません。本来であれば、アメリカ側に渡るはずもない極秘文書です。

しかし、極秘文書の暗号解読に成功したアメリカは、「国策要綱」にこそ日本の本音が示されていると信じました。アメリカが「国策要綱」から汲み取ったのは、日本の悪意です。

ただし、日本語が正確に翻訳されたわけではありません。先に紹介したように、飜訳の過程において翻訳者の能力の拙さに加えて、日本は邪悪であるという思い込みによる恣意的な改ざんが為されたため、マジック情報によって伝わる日本側の悪意は、より増幅される結果を生みました。

飜訳された「国策要綱」が米政府に伝わると、政府高官の多くが怒りを感じました。なかでももっとも過敏に反応したのは、以前から対日強硬論者で知られているスティムソン陸軍長官です。

「国策要綱」を目にしたスティムソンは激怒し、すぐさまハル国務長官に電話を入れています。「日本は日米首脳会談という魅力的かつ平和的なプランを提示しながら、すでに南進を決め、アメリカとの戦争を辞さない覚悟を決めている」と……。

スティムソンにとって日本が見せる二面性は、許しがたいものでした。マジック情報によって日本側の隠された悪意が剥き出しになったのだと、スティムソンは解釈しました。

もともとスティムソンは日本という国家に対する不信感や憎悪を根強くもっていた人物です。終戦間際、日本が降伏しようとしているとの情報をつかんでいながら、急いで原爆投下を決定したのもスティムソンでした。

日米首脳会談の申込みは日本が南進へ向けて準備を整えるための単なる目くらましに過ぎないと、スティムソンは受け取ったのです。

8月9日の日記にスティムソンは綴っています。
「この会談の申し込みは、我々に断固とした行動を起こさせないための目くらましである」と。

スティムソンの見解はハルを含め、米政府高官に共通していました。「国策要綱」のマジック情報が日米首脳会談の申込みと同じタイミングでもたらされたため、期せずして日本の二面性が強烈にあぶり出されることになったのです。

太平洋に平和をもたらすために近衛首相が命を賭けてまで提案した日米首脳会談を、アメリカ側は日本が悪意を隠すために行う時間稼ぎに過ぎないと受け止めました。

だからこそハルは野村大使に対し、首脳会談を拒絶する姿勢を見せたのです。

しかし、日本にはアメリカがなぜ日米首脳会談を受けてくれないのかがわかりません。まさか「国策要綱」が筒抜けになり、アメリカが日本に不信感を募らせているとは思いも及ばないことでした。

最大限の譲歩をしようとしているのに門前払いとなる理由がわからず、アメリカははじめから日本との間に和平を築く気などないのではないかと、疑心ばかりが頭をもたげます。

こうして両国間のすれ違いは、またも双方に誤解を生み、双方の信頼感を損なう結果となったのです。

野村大使が日米首脳会談の申し入れを米政府に行った直後に、ルーズベルトとチャーチルによる大西洋会談が行われています。

対米英欄戦を語るうえで、大西洋会談の知識は必須です。大西洋会談は戦後の世界秩序の起点とみなされていますが、数々の欺瞞(ぎまん)に満ちた会談でもありました。

大西洋会談の詳細については次回と次々回の2回に分けて紹介します。

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ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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