第1部4章 日米交渉(10/36)石油禁輸が日本にもたらした事〜帝国海軍の見た夢は、時代を超えて〜

第1部4章 日米交渉(10/36)石油禁輸が日本にもたらした事〜帝国海軍の見た夢は、時代を超えて〜

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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(9/36) アメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎に迫る

日米開戦までのカウントダウン

大東亜戦争を振り返ったとき、日本軍の南部仏印進駐への制裁としてアメリカが石油の対日禁輸に踏み切ったことが、開戦の大きなきっかけになっていることがわかります。

米政府が公に指示していないにもかかわらず、なぜ石油の全面禁輸に至ったのかは、日米交渉における大きな謎の一つです。

未だ全容が解明されるには至っていませんが、禁輸に至った過程や今日までの諸説については前回、紹介しましたので参照してください。

今回は石油の全面禁輸が日本にいかに深刻な打撃を与えたのかについて、追いかけてみます。

4-3.南部仏印進駐と日米交渉

その6.石油の禁輸は日本に何をもたらしたのか

- 「自存自衛の危機」がもたらした開戦の論理 -

予測できないアメリカの強硬な姿勢に茫然(ぼうぜん)自失の体に陥ったのは、日本の政府首脳や陸海軍の幕僚たちです。

南部仏印進駐は松岡外相と軍部の対立の果てに導かれた結果に過ぎず、日本にとっては完全に国内問題のつもりでした。ところがアメリカが石油禁輸という最後のカードに手をかけるとは、想定外の出来事だったのです。

事は重大でした。石油の禁輸は、日米開戦を日本に迫ることを意味していたからです。

これまで日本は政府にしても軍部にしても、アメリカとの戦争だけは避けようと立ち回ってきました。そのために自ら課したのが、自存自衛のやむを得ない場合以外は武力行使に訴えないとする制約でした。

「自存自衛のため」のみ戦うという枷を付けることで、安易に武力行使に出ようとする声を押さえつけてきたのです。つまり「自存自衛の危機」を設定することが、抑止の論理に繋がっていたことになります。「自存自衛の危機」として想定されていたのが、石油の全面禁輸でした。

ところが実際に石油の全面禁輸が実行に移されたとなると、今まさに「自存自衛の危機」にあることになります。そうなると「抑止の論理」は「開戦の論理」へと、ひっくり返るよりありません。

8月1日以降、日本の政府や軍部が望むと望まないとに関わらず、日米開戦への時が確実に刻み始めたのです。

それでも、まだ希望は残されていました。8月1日に為されたアメリカの声明が直ちに石油の全面禁輸を意味するものではないとする冷静な論も、支持されていたからです。実際、前述のごとくアメリカ政府は当初、一定量の石油を日本に輸出する予定でいました。

日本にできることは、しばらくアメリカの出方を見守ることだけでした。その間も軍部では、日米開戦はもはや避けられないのではないかと悲観する声が日増しに強くなる一方です。

8月2日の『機密戦争日誌』には次のように綴られています。
「対米戦争は百年戦争なり。帝国は遂に之を回避するの方法なきや。同盟電に依れば石油を禁輸すると云う事実なりとせば遂に百年戦争避け難き宿命なり」

さらに日が経つごとにアメリカによる石油全面禁輸が次第に明らかとなり、『機密戦争日誌』の記述にも悲壮感が漂ってきます。

「対英米方策を如何にすべきや、対英米戦を決意すべきや、対英米屈服すべきや、戦争をせず而も屈服せず打開の道なきや、此の苦悩連綿として尽きず班内二日間議論す」

「仏印進駐をめぐる英米の対日動向判断に於いて楽観に過ぎたるは既に明かなり、情勢の判断誤れるを告白す」

- 戦争決意なき戦争準備 -

石油の全面禁輸が日米開戦へと日本を誘ったのは、抑止の論理が開戦の論理へと転じたというレトリックだけの問題ではありません。

新たに石油が一滴も入ってこないとなると、現在、貯蔵している石油がなくなれば、もはや艦船も飛行機も戦車も動かすことができなくなります。そうなればもはや戦うことができないだけに、米英の言うがままに降伏するよりありません。

アメリカに降伏したくなければ、貯蔵している石油がある間に戦いに打って出ることで石油資源を確保するより他に方法はない状況でした。

7月30日には海軍の永野軍令部総長が参内して上奏を行っています。永野は海軍としては対米戦争を望んでいないものの「油の供給源を失うことになれば、海軍の石油貯蔵量は二ヵ年分で、戦争になれば一年ないし一年半で空になってしまうから、むしろこの際打って出ずるほかはないと信じます」と述べています。

日米交渉 石油の禁輸は日本に何をもたらしたのか1
wikipedia:永野修身 より引用
【 人物紹介 – 永野修身(ながの おさみ) 】1880年(明治13年) – 1947年(昭和22年)
明治-昭和時代の海軍軍人。最終階級は元帥。日露戦争にて旅順砲撃に参加。米国駐在中にハーバード大学で学ぶ。有数のアメリカ通として知られ、米国流の人事管理論を使って人事考課法を刷新、海軍兵学校長時代は自学自習を骨子とするダルトン式教育を採用、体罰の禁止など抜本的な教育改革を推進した。砲戦術の新機軸を編みだすなど、アイデアマンとしても優れていた。

兵学校長時代はロンドン海軍軍縮会議全権となり、同会議からの脱退を通告。広田内閣にて海相、連合艦隊司令長官を歴任。軍事参議官を経て、海軍軍令部総長に就任。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官・海軍大臣・軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。対米開戦に際しては海軍部内の強硬意見を代表した。開戦後は海軍作戦の最高責任者となる。戦後はA級戦犯に指名されたが裁判中に病死。

驚いた天皇から勝算について問われると「日本海海戦のごとき勝利は問題外でありまして、勝てるかどうかもじつは覚つかない次第でありますが、そのほかに活きる道はないように思われます」と素直に奉答しています。

軍人の言葉にしては弱気に過ぎると感じられるかもしれませんが、「日米開戦より他に選択肢はない、されどアメリカに勝つ見込みは極めて薄い」との判断は、多くの幕僚に共通する見解でした。

はっきりしていることは、このまま日本が戦わなければ米英の前に頭を垂れるよりない、という事実です。

それは、明治以降、列強の植民地になることを良しとせず、列強と伍して渡り合うために有色人種の国として唯一強国へとのし上がったこれまでの日本の歩みを、すべて葬り去ることを意味していました。

戦わずして負けるよりは、死中に活を求めたほうがまだましだと、当時の軍人の多くは考えました。ことに石油禁輸を受けたあとの海軍では、対米一戦論を主張する声が強くなるばかりです。

「対米戦は運命であろう。戦えば案外勝って国運が拓けるかも知れぬ。無為にして干上がるよりは優る」との意見が大勢を占めたのです。

これを受けて海軍では8月3日に「帝国国策遂行方針」を完成させています。この原文は残されていませんが『機密戦争日誌』からの類推により、「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、打開の途なきにおいては実力を発動する」骨子だったと見られています。

● 開戦まであと127日 = 1941年8月3日

海軍が「遂行方針」で優先したのは、万が一のための備えでした。<注釈- 4-3-7>

海軍の「遂行方針」はアメリカの資産凍結が全面禁輸を意味することがはっきりした8月16日に、陸軍にも提示されました。

アメリカの対日経済制裁が発動されたことによって日本は、戦争決意はないままに戦争準備だけは進めることを余儀なくされたのです。

- 国運を賭けた人造石油開発計画 -

日本という国家が存続する上で、石油はもっとも重要な資源でした。石油がなければ国内の産業は成り立たず、精鋭を誇った陸海軍といえども戦うことさえできません。

資源に恵まれない日本にとって石油の確保は、いつの時代においても死命を決するほどの重大な問題でした。

日本国内で石油を精製できない以上、外国からの輸入に頼るよりありません。下の図は日本の国別石油輸入量を表したものです。

日米交渉 石油の禁輸は日本に何をもたらしたのか2
[fontsize size=”1″]『アジア・太平洋戦争と石油: 戦備・戦略・対外政策』岩間敏著(吉川弘文館)より引用[/fontsize]

日本は70~80%の石油をアメリカに頼っていました。ところがアメリカと蘭印からの石油輸入を絶たれ、たちまち国家存亡の瀬戸際に立たされることになったのです。

もちろん、このような切羽詰まった状況になるまで、日本が石油問題を放置していたわけではありません。1936(昭和11)年には国運を賭けて人造石油の7年計画に着手しています。

人造石油とは石油以外の化石資源である石炭やオイルシェールなどを加工して得られる石油代用燃料のことです。当時、この分野で世界をリードしていたのは、日本同様に資源に乏しいドイツでした。<注釈- 4-3-8>

ドイツに続けとばかりに、日本は人造石油の開発計画に巨額の国家予算を投入しました。その額は7億7千万円です。当時の国家予算が29億円ですから、およそ四分の一にも達する、まさに国運を賭けた巨大プロジェクトでした。<注釈- 4-3-9>

満州や朝鮮半島、樺太や北海道などに18ヵ所の人造石油工場が建設され、人造石油の開発が進められました。しかし、結果的に日本は人造石油の開発に失敗します。

昭和15年度は計画の 2%に過ぎない2万キロリットル、16年度は 15%にあたる 19万キロリットルを生産することが精一杯でした。その後も完全な工業化には至っていません。

日本が人造石油の工業化に失敗した原因としては、ドイツから技術情報が伝授されなかったこと、日本における石油工業の技術が貧弱であったこと、人造石油建設のための鋼材が不足していたことが指摘されています。

国家の命運を賭けた人造石油開発計画は、ついに陽の目を見ることなく終戦を迎えたのです。

- 海軍が追いかけた「水からガソリン」の夢 -

人造石油とは別に、石油に頼ることなく石油を精製しようとする試みは、戦前・戦中を通じて幾度か繰り返されました。なかでも一際異彩を放つのが「水からガソリン」を創る実験を海軍が真剣に行っていたことです。

1939(昭和14)年、ある薬品を普通の水に加えて数日おくことで、水が石油に変わることに成功したと聞きつけた海軍では、それが世紀の発見なのか、それとも詐欺なのかをめぐって意見が対立しました。

現代から振り返れば水が石油に変わるはずがないと一笑に付して終わる話ですが、当時は違いました。「水をガソリンに変える方法」を編み出したという本多維富は在野の科学者に過ぎませんが、元帝国大学助教授ら専門家も太鼓判を押すほど名前が知られていました。

本多は水をガソリンに変える実験を過去に幾度か成功させており、一部の政財界からも支持を受けていました。有名な化学メーカーが後ろ盾につき、工業化に向けて準備を始めていた程です。

当時の状況からして、海軍のなかに「水からガソリン」を信じる軍人がいても、やむを得ない面があります。

しかし、海軍燃料廠(しょう)の技師たちは水がガソリンに変わることなど科学的にあり得ないと主張し、実験を行えば海軍が笑いものになるだけだと猛反発しています。燃料や潤滑油など石油製品関係の研究・実験を行う施設として設けられたのが海軍燃料廠です。そこはまさに、化学における日本のトップ頭脳の集団でした。

その一方で、燃料廠長は実験に前向きで「理外の理ということもある」と、反対論を封じ込めています。当時は「戦争」という起爆剤の作用もあり、新たな科学的な発見が世界中で相次いでいた時代です。今日の科学的常識に照らしてあり得ないことでも、明日には可能となることがあると多くの人々が信じていたのです。

海軍として実験を行うべきか否かをめぐり意見が割れるなか、「徹底的に実験を行えばよかろう」と指示を下したのが、当時海軍次官であった山本五十六でした。海軍の威信を背負った実験の責任者として選ばれたのは、特攻の生みの親として知られる大西瀧治郎大佐です。

日米交渉 石油の禁輸は日本に何をもたらしたのか4
wikipedia:山本五十六 より引用
【 人物紹介 – 山本五十六(やまもと いそろく) 】1884(明治17)年 – 1943(昭和18)年
明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は元帥海軍大将。日露戦争に従軍し日本海海戦で戦傷を負う。海軍大学卒業後、アメリカに留学。ハーバード大で学ぶ。のちアメリカ駐在大使館付き武官を長く務め、ロンドン軍縮会議の随員でもあったことから海外の事情によく通じていた。いち早く航空機の将来性に着目し、帰国後は海軍航空本部技術部長となり、部品の国産化・海外新技術の吸収など航空工業の再編に尽力。海軍航空本部長となってからは航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し、攻撃力に重点を置いた航空機開発、部隊編制に努めた。のち海軍次官として日独伊三国同盟に反対、対米戦にも作戦的見地から勝算なしと反対した。

平沼内閣の総辞職に伴って中央を離れ、連合艦隊司令長官に就任。大戦が始まると自ら立案したハワイ・真珠湾攻撃の指揮をとり、成功に導いた。続いてミッドウェー海戦の指揮をとるも大敗を喫し、戦局の逆転を招く。のち前線視察中に米軍機に待ち伏せ攻撃され、南太平洋ブーゲンビル島上空で搭乗機が撃墜され戦死。人心掌握の心得を示した「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は有名。山本の死は1ヶ月秘匿された後に公表され、国葬に付された。皇族・華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前戦中唯一の例。

日米交渉 石油の禁輸は日本に何をもたらしたのか3
wikipedia:大西瀧治郎 より引用
【 人物紹介 – 大西瀧治郎(おおにし たきじろう) 】1891(明治24)年 – 1945(昭和20)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は海軍中将。海軍航空本部教育部長、第二連合航空隊司令官などを歴任。山本元帥の懐刀(ふところがたな)と呼ばれ、海軍航空作戦の名人として名を馳せ、「海軍航空育ての親」として知られる。大戦中は第一航空艦隊長官として、神風特別攻撃隊を発案・創設・指揮した。「特攻生みの親」として知られているが、これが事実であるかは議論の余地があるとされる。のちに軍令部次長となる。

終戦後の1945年8月16日、これまで多くの若者を特攻で死なせた責任をとり、遺書を残し割腹自決を遂げた。その際、介錯を拒み、自ら長い苦悶を選択した。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。涙もろく情け深い武人として知られ、子供がいなかったため、みなし子を何人も引き取って育てていた。

こうして海軍で行われた「水からガソリン」をめぐる実験については、山本一生著『水を石油に変える人 山本五十六、不覚の一瞬』に詳しく紹介されています。

結論から言えば、実験は成功しました。複数の薬瓶のなかから1本のみが、石油に変わっていたのです。

ただし、大西大佐はこれを詐欺と判定しました。当初は「水からガソリン」を信じていた大西大佐ですが、実験が進むにつれて怪しさを感じるようになり、念のため実験に使われた18本の薬瓶すべてのスケッチを残していたことが功を奏しました。薬瓶の表面には気泡のような疵(きず)が多くあり、それぞれ識別が可能だったのです。

石油の精製に成功した薬瓶は、スケッチには描かれていないものでした。つまり、薬瓶がすり替えられたことを意味しています。

「世紀の実験」ではなく、「世紀の手品」が演じられたのだと大西大佐は確信しました。ただ問題は、手品の種がさっぱりわからないことです。<注釈- 4-3-10>

謎は多いものの「水からガソリン」というトンデモ科学は、本多維富という稀代(きだい)の詐欺師が仕掛けた大がかりな詐欺として、今日では語られています。そのような与太話に海軍までもが騙されそうになった背景には、石油が入ってこない状況をどうにかしたいという藁にもすがる思いがあったことは間違いありません。

本多の語る「水からガソリン」を信じて政財界から多くの出資者が名乗りを上げましたが、「国益のためなら」という思いがその原動力であったことも、想像に難くありません。

「水からガソリン」が詐欺とわかった後も、同様の試みは続けられました。1944(昭和19)年頃から日本中をあげて取り組んだのが「松から石油」です。

松の根から取り込んだ原油とタールから航空ガソリンにする計画が立てられ、子供と老人を除く全国民が実際に松の根掘りに駆り出されています。松根油の生産は国をあげての運動となりましたが、実用化には至りませんでした。

「水からガソリン」も「松からガソリン」も、石油資源もなく精製技術もなかった日本がたどった悲劇と言えるでしょう。

トンデモ科学に希望を繋ぐよりない刹那的な状況が、日本中を覆っていたのです。

水から石油を作り出す夢を海軍が真剣に追いかけようとしたことは、現代の科学的な常識からすればあまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)に感じられますが、STAP細胞の真偽をめぐって話題となったのは、つい最近のことです。

最新の科学が「理外の理」をもたらすことは、いつの時代においても変わりありません。

戦後70数年が過ぎ、現在、注目を浴びているのが京都大学名誉教授の今中教授が実用化を目指して開発を進めている水から石油を作り出す技術です。正確には水と炭酸ガスから石油を生成する技術です。

山中教授は微生物研究では世界的な権威として知られています。実用化については懐疑的な論も多々ありますが、日本と世界の両方で今、特許の申請が為されています。

水から石油を生成できると海軍を相手に豪語した本多維富は間違いなく詐欺師でしたが、最新テクノロジーによって本当に水から石油ができる時代は、案外間近に迫っているのかもしれません。

果たして山本五十六をはじめとする帝国海軍の見た夢は、時代を超えて実を結ぶのでしょうか?

当時も今も、石油が日本にとって極めて重要な資源であることには、なんら変わりありません。石油を確保することが、すなわち国家の繁栄に繋がっていたのです。

石油の全面禁輸により、日本はたちまち窮地に追い込まれることになりました。そのことは対米開戦論が声高に叫ばれる状況を招くことになります。この続きは次回にて。

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注釈- 4-3-7
海軍の艦艇は予算の都合上、平時においてすべてが動けるようには整備されていません。フルに動ける状態まで整備するには「出師準備」の段階に入る必要がありました。「遂行方針」において海軍は、万一に備えて「出師準備」に取りかかることを決定しています。

注釈- 4-3-8
第二次世界大戦中、ドイツは年間総需要の30%にあたる500万トンもの人造石油の製造に成功しています。人造石油の製造コストは高く、普通の石油の10倍にも達しています。しかし、どれだけ製造コストが高くても海外から石油を売ってもらえない以上は、人造石油に頼らざるを得ません。

注釈- 4-3-9
世界最大の戦艦大和の建造費が1億4千万ほどですから、人造石油の開発のために大和5艦分の巨額の予算が割かれたことになります。

当初の計画では昭和15年度に93万キロリットル、16年度は120万キロリットルの人造石油の生産が予定され、計画最終年の昭和18年度には重油とガソリン各100万キロリットルを生産し、国内需要の約4割を自給自足するという壮大な計画でした。

注釈- 4-3-10
実験に用いられたのは400ccの薬瓶でした。現在の500mlのコカコーラのペットボトルを少しだけ小ぶりにしたような大きさです。それほど大きな薬瓶を、多くの人々が詐欺を疑って厳重に監視するなか、どうやってすり替えたのかは大きな謎です。持ち物検査も徹底していただけに、実験場に薬瓶を持ちこむことさえ不可能な状況でした。すり替えられた元の薬瓶を発見することもできていません。

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