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    レキシジン 4章「大戦へのカウントダウン」 1941年 戦争回避のための日米交渉 第1部4章 日米交渉(7/36)対日経済制裁。なぜアメリカは南部仏印進駐を重大事と受けたのか

    第1部4章 日米交渉(7/36)対日経済制裁。なぜアメリカは南部仏印進駐を重大事と受けたのか

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部4章 日米交渉(6/36)言語の壁。アメリカの暗号解読ミスが生んだ深刻なすれ違い

    日米開戦までのカウントダウン

    前回はアメリカが日本の外交暗号文を解読した際に生じた問題点について紹介しました。今回は南部仏印進駐によって日米交渉が打ち切られ、アメリカによる対日経済制裁が行われたいきさつについて追いかけます。

    アメリカによる経済制裁は日本ばかりでなく、イギリスやオランダにとっても、また米軍にとっても予期していない青天の霹靂(へきれき)でした。

    それはこれまでの外交の流れとは関係なく、唐突に為されたのです。

    4-3.南部仏印進駐と日米交渉

    その2.日米交渉の打ち切り

    日本の南部仏印進駐が近いことを知ると、アメリカの動きも慌ただしさを増しました。7月18日にはアメリカの閣議において、日本に対する制裁が検討されています。

    マジック情報によって南部仏印進駐を武力行使を伴う南進への第一歩と捉えたアメリカは、これを何としても阻止するために、かねてより切り札として用意してあった石油の全面禁輸にいよいよ踏み切るかどうかを議論したのです。

    その結果、この時点では結論は持ち越しとされました。米海軍が以前からの方針を引き継ぎ、対日貿易の全面禁止に反対を唱えたためです。全面禁輸により日本の蘭印への武力行使を招くことを米海軍は危惧しました。日本が石油を求めて蘭印へ侵攻したならば、アメリカとしても対日参戦が現実味を帯びることになってしまいます。

    大西洋上でイギリスに支援物資を送るための護送コンボイに全力を注いでいる米海軍としては、まだ日本軍と戦う準備ができていないだけに、日本と戦争になることは避けたいとの思惑がありました。

    そこでアメリカは石油の対日全面禁輸には踏み切らないものの、日本の在米資産凍結、絹などの輸入禁止または制限を行うこと、石油については平常の量に制限すること、輸出可能なガソリンと潤滑油のランクを落とすことを決定しています。

    それでもアメリカは、日本が南部仏印進駐を中止するのではないかとの希望を捨てていませんでした。外相がドイツべったりの松岡から親米派の豊田に替わったことは、アメリカにとって歓迎すべきことでした。豊田外相によって南部仏印進駐の方針が見直されることを期待したのです。

    しかし、当時の日本には南部仏印進駐が深刻な事態を招くとの認識が欠けていました。これまでの経過からしても、南部仏印進駐にアメリカが過剰な反応を示すとは予見できていなかったのです。

    豊田外相は南部仏印進駐に際し、23日24時を期限とする通告をヴィシー政権に対して行いました。事実上の最後通牒です。

    本国がナチス・ドイツの支配下にあるフランスのヴィシー政権にはもとより、日本の南部仏印進駐を阻むだけの力はありません。ここで拒絶をすれば、日本が武力行使に踏み切ることは確実なだけに、仏印そのものを永久に失うことになります。仏印を植民地として留めおくためには、妥協するより他に道はありませんでした。

    7月22日、加藤外松駐仏大使とヴィシー政府との間で話し合いが成立し、日本軍の南部仏印進駐は北部仏印進駐に続いて平和的に実行されることが決定されたのです。

    これを受け、休養中だったハル国務長官は23日ウェルズ次官に電話をかけ、日米交渉の中止を日本に伝えるように命じました。

    ウェルズは七月二十三日ホワイト・サルファー・スプリングズの私のところへ電話をかけて来て、野村から会見を申し込まれているがどうしようかと相談して来た。私はウェルズにいった。

    「日本の南部仏印侵略は、南西太平洋に全面的な攻撃を行う前の最後の布告だと思われる。日米交渉の最中にこういうことをしたのだから、交渉も継続する基礎はなくなったと思う」

     ウェルズは強い言葉で野村にこの意見を伝え、われわれの交渉は終わったという私の態度を明らかにした。これから後日本に対するわれわれの主な目的は国防の準備のために時をかせぐことであった。

    ハル回顧録』コーデル・ハル著(中央公論新社)より引用

    ● 開戦まであと138日 = 1941年7月23日

    大東亜戦争 日米交渉1
    wikipedia:サムナー・ウェルズ より引用
    【 人物紹介 – サムナー・ウェルズ 】1892年 – 1961年
    アメリカの外交官・政治家。ハーバード大学においてフランクリン・ルーズベルトと知り合い、親しい関係を築く。ハーバード大学を首席で卒業後、ルーズベルトの助言により国務省外交部に入省。東京での職務を経てラテンアメリカの専門家として活躍。ルーズベルト政権下の1937年から1943年までアメリカ合衆国国務次官を務めた。

    交渉の打ち切りを受け、日米諒解案の作成時からワシントンで活動していた井川や岩畔らも帰国することになりました。

    こうして日米諒解案に基づく日米交渉は、日本の南部仏印進駐を原因としてアメリカ側から打ち切られることになったのです。

    まだ日米交渉そのものが破綻したわけではないものの、第一ラウンドが終わったことにより日米交渉そのものの在り方が、これより後は大きく変わることになります。

    ハル回顧録でハルが「これから後日本に対するわれわれの主な目的は国防の準備のために時をかせぐことであった」と述べているように、アメリカの交渉目的は最早日本との間に和平を築くことではなく、戦う準備ができるまでの時間稼ぎをすることへとギアチェンジしたのです。

    ただし、アメリカはその前に、日本の南部仏印進駐そのものを白紙に戻し、太平洋に平和をもたらすための提案を日本に対して行っています。ルーズベルト大統領による「仏印の中立化提案」です。これについては後ほど詳しく紹介します。

    その3.予測できなかった対日経済制裁

    - 対日経済制裁への足取り -

    日本軍の南部仏印進駐が明らかとなった翌日の24日、アメリカ政府は新聞発表を行い、日本の動きを非難しました。

    「日本政府のとった処置は、フィリピン群島を含めた他の太平洋地域の安全を危険にさらしている。わが政府と国民は、かかる進展をわが国の安全保障に極めて重大なる問題を及ぼすものと深く認識するものである」

    南部仏印進駐に対するアメリカの受け止め方は終始一貫しています。マジック情報とも照らし合わせ、南部仏印進駐は日本軍による東南アジア全域を武力侵攻するための初めの一歩と見なしていました。

    24日の午後の閣議にて、ルーズベルトは無制限国家非常事態宣言に基づき、日本の南部仏印進駐に対する経済制裁を発動しました。在米日本資産の凍結です。

    これによってアメリカ国内にある日本国、及び日本国籍の人の資産の処分や移動が一時的に禁止され、アメリカ政府の管理下に置かれることになりました。平たく言えば、資産を差し押さえたと言うことです。

    在米日本資産の凍結は26日に発効されました。イギリスとオランダもアメリカに歩調を合わせ、対日資産の凍結に踏み切っています。

    ● 開戦まであと135日 = 1941年7月26日

    さらにアメリカ政府は日本との輸出入をすべて許可制とし、政府の管理下におくこととしました。ただし、このことが直ちに石油などの全面禁輸を意味していたわけではありません。

    対日貿易制限についてもイギリス・オランダはアメリカに追随しました。イギリスは日英通商航海条約等を廃棄し、オランダは日蘭民間石油協定の停止を決定しています。

    こうして日本に対して行われた一連の貿易制限を、日本では「ABCD包囲網」と呼びます。「A」はアメリカ合衆国(America)、「B」はイギリス(Britain)、「C」は中華民国(China)、「D]はオランダ(Dutch)を表しています。

    もっとも中国が包囲網に加わっているのは名目に過ぎません。日本に国土のほとんどを奪われた中国には、貿易制限ができるほどの国力はもはやありませんでした。

    ABCD包囲網によって主要各国との貿易を阻まれ、日本はますます袋小路に追い詰められていくことになったのです。

    - 誰も予測できなかった -

    それにしてもアメリカによる対日資産の凍結は、唐突の感を拭えません。日本の在米資産を凍結すると言うことは、日本との経済断交を意味します。それにより一歩間違えれば戦争に発展するかもしれないことは、誰から見ても明らかでした。

    日本がこの動きを予期できなかったのはもちろん、同盟国であるイギリスやオランダにしても驚くべきことでした。アメリカは事前に英蘭に何の相談もなく対日経済制裁に踏み切ったため、イギリス・オランダともに対応には苦慮しています。結果的にアメリカによる対日経済背制裁に同調したものの、不安を拭えませんでした。

    イギリスのチャーチル首相は次のように綴っています。

    「時が経つにつれて、七月二十六日にルーズベルト大統領が実施した対日制裁がもたらす恐るべき効果(影響)について不安になってきた。この制裁には我が国もオランダも加わっていた。このままでは、英米海軍は太平洋およびインド洋方面で日本海軍と衝突するのではないか。それが心配だった。」

    「ABCD包囲網」と聞くと4カ国があたかも示し合わせて対日包囲網を築いたように思いがちですが、実際は相互に了解した上で実行に移されたわけではなく、アメリカが単独で勝手に対日制裁を始め、イギリスとオランダは不安を抱きながらもアメリカに付き従うより他に選択肢がなく、結果として完成した包囲網に過ぎなかったのです。

    イギリスとオランダにとっての最大の不安は、対日経済制裁に行き詰まった日本が蘭印に武力侵攻した際に、アメリカが本当に参戦してくれるかどうかでした。イギリスとオランダだけでは蘭印を守り切れないことは明らかです。されども蘭印が侵攻されたときにアメリカが参戦するとの確約が交わされていたわけでもないだけに、イギリスにとってもオランダにとっても不安の種は尽きませんでした。

    日本との戦争を避けるために日本への経済制裁に反対を唱えていた米海軍にしても、今回の対日経済制裁はまさに青天の霹靂(へきれき)でした。

    大西洋を重視している米海軍の太平洋での防備は、まだまだ準備不足です。ここで戦争が起きたのでは、日本軍の攻勢に堪えられないことは米海軍が最もわかっています。それにもかかわらず、この段階で強硬な経済制裁に出るとは米海軍としても予想していないことでした。

    米海軍は26日、取り急ぎフィリピン陸海軍を米陸海軍に編入させ、米極東陸軍司令部を新設するとともに最高指揮官としてダグラス・マッカーサーを任命しました。それらは日本軍の侵攻に備え、フィリピン防衛を本格化させるための措置です。後に空飛ぶ要塞と称される新鋭爆撃機ボーイング17を配備し、日本軍から植民地フィリピンを守り抜く決意を明確にしました。

    大東亜戦争 日米交渉2
    wikipedia:ダグラス・マッカーサー より引用
    【 人物紹介 – ダグラス・マッカーサー 】1880年 – 1964年
    アメリカの軍人。最終階級は陸軍元帥。第一次大戦に参加し活躍。帰国後はウェストポイント校長、陸軍参謀総長などを歴任。いずれも最年少記録を塗り替えた。その後、フィリピン国民軍を創設。一度は退官するも1941年7月にルーズベルトの要請を受け、現役に復帰。在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。圧倒的に優位な軍事力を擁していたにもかかわらず、開戦まもなく日本軍の侵攻に敗退を重ねる。人種差別的発想の持ち主であったことから日本人を見下し、油断したことが敗因とされる。

    自軍機が日本軍機に撃墜されても「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告し、適確な対策を怠ったとされる。コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領のケソンを脱出させる際、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求し、フィリピンの国庫より50万ドルを受け取る。自らもフィリピンを脱出することになり、その際 “I shall return.” (私は必ず帰る) の言葉を残した。1944年の反攻作戦によりフィリピン奪還。戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の民主化を進め、国際法に違反して新憲法をもたらす。統治中は昭和天皇を東京裁判の訴追から外すことに尽力したこと、及びマスコミの好意的な報道により日本人からの人気は高かった。

    その後、大統領選への出馬を表明するも本選にてトルーマンに敗れる。朝鮮戦争勃発時に国連軍総司令官となるが、トルーマン大統領の政策に反対し、解任される。帰国のため車で東京国際空港に向かった際には、沿道に見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。 退任にあたり「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べ、有名になった。

    米海軍にしても、同盟国であるイギリスやオランダにしても予測できなかった対日経済制裁の発動を、日本が事前に予見できなかったことは仕方がないことと言えるでしょう。それだけアメリカの決断が、常識に反していたともいえます。

    アメリカがなぜ危険を冒してまで経済制裁を発動させたのかについては、日本の北進を阻むためとの論があることを以前の記事にて、すでに紹介していますので参照してください。

    今回はアメリカの発動した対日経済制裁が、当時の常識にいかに反していたかを中心に紹介しました。次回はルーズベルトが日本に提案した仏印中立化案について、追いかけてみます。

    日米交渉を振り返ったとき、この案を真剣に取り合わなかったことは日本にとっての痛恨事となりました。

    (8/36)まだ戦争は避けれた!ルーズベルトの仏印中立化案と台無しにした野村大使

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    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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