日米交渉(5/36)

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部4章 日米交渉(4/36)日米諒解案だけを日本政府に送った野村大使の独断。大混乱へ

日米開戦までのカウントダウン


[fontsize size=”1″]Revealed: The forgotten secrets of Stalingradより引用[/fontsize]

前回まで日米諒解案をめぐる日米の動きについて見てきました。今回は独ソ開戦に伴い、これまでアメリカが日本に見せていた宥和的な姿勢が改まる経過について追いかけてみます。

4-2.日米諒解案

その14.日米交渉の潮目を変えた独ソ開戦

日米交渉を後から振り返ったとき、両国が歩み寄ることで和解の可能性が最も高かったのは、4月下旬から6月中旬にかけてでした。この時期、ハルが真剣に日米の国交調整を望み動いていたことは、アメリカに残る数々の陳述や交渉に当たった野村の残した手記からも明らかです。

「米国はいまや速やかなる行動を必要とするのであって、手遅れになってはならない。私の同僚はそろって私に敏速なる交渉の進行を勧告している」と、この時期のハルは綴っています。

大西洋第一主義をとるアメリカにとって、対独戦への参戦が何よりも優先されることでした。一日も早くアメリカが動かなければ、イギリスの息の根が止まる危険性が高まっていたからです。日米交渉によって太平洋の平和を得られるのであれば、多少の譲歩をしても構わないとの空気がルーズベルト政権を覆っていました。

したがって、この時期であれば日本に有利な条件で日米の和解を図れる可能性が高かったといえます。追い風が吹き、日本にとって極めて大切だったこの重要な期間に、松岡と野村によるちぐなぐな外交は、何もできないまま日本を時間切れへと導いたのです。

6月中旬を境に、それまで日本との和解を求めていたアメリカの態度が豹変します。日本に譲歩してでも太平洋の平和を築きたいとするアメリカの基本姿勢に変化が生じたためです。そのきっかけとなったのは、6月22日の独ソ開戦でした。

独ソ開戦については先に詳しく紹介していますので、そちらの記事を参照してください。
独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

独ソ開戦はアメリカの国家戦略を根本から変えました。三国同盟と日ソ中立条約の締結はアメリカから見て日本の脅威を高めたため、日本との和平を必要としました。しかし、独ソ開戦によって日本の脅威が一気に取り除かれることになり、最早アメリカは大きな譲歩をしてまで日本との和平を求める必要から解放されたのです。

日米交渉の潮目は、独ソ開戦によって明らかに変わりました。このことはワシントンで日米交渉に当たっていた岩畔も指摘しています。

岩畔は約言する。「私の考えでは独ソ戦即ち六月二十二日以前において纏(まと)めれば纏められる」。要するに日米了解案に基づく戦争回避の可能性は、独ソ戦の開始前ならばあったことになる。

 他方で松岡外相が四月一三日にモスクワで日ソ中立条約に調印している。ここに日ソ戦争の可能性が遠のく。独ソ戦は長期化する。そうなればドイツにとって不利な戦況が訪れる。ヨーロッパを席巻するドイツとそのドイツの同盟国日本だからこそ、アメリカは宥和(ゆうわ)的な姿勢を示して、日米了解案に接近した。しかしドイツが劣勢に陥るとなれば、話は別である。

戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』 井上寿一著(講談社)より引用

日本に有利に吹いていた風は、独ソ開戦によって一瞬にして逆風へと変わりました。黄金の時間帯を無策に過ごし好機を逃してしまった日本にとって、このあとの日米交渉は重苦しい時間帯のみがどこまでも続くことになります。

その15.独ソ開戦直前に届いたアメリカ側対案

アメリカから日本側修正案に対する正式な回答が示されたのは、6月21日のことでした。結論から言えばアメリカの対案は、5月12日の日本側修正案を全否定するに等しいものです。

● 開戦まであと170日 = 1941年6月21日

ポイントとなるのは、以下の3つです。

1.アメリカが対独戦に自衛のために参戦したとしても、日本は必ずしも三国同盟による対米参戦を行わないこと
2.日中戦争を終わらせるための米大統領の仲介に際しては、和平条件について日中間ではなく日米間の合意を前提とすること
3.通商無差別待遇原則を中国にも適用すること

さらに二番目の日米間の和平条件として、日中間の協定に基づき中国から日本軍を撤兵させること、中国を併合しないこと、中国に対して賠償を求めないことに加え、満州国に関する日中間の交渉を行うことなどが列挙されていました。

日本側を驚かせたのは、満州を日中間の交渉事項に加えたことです。そのことは、アメリカが間接的に満州国を否定することを意味していたからです。満州国の否定は、日本が目指す東亜新秩序をも否定することに繋がります。

先の日米諒解案に日本側が喜んだのは、アメリカが満州国を容認したからこそでした。ところがアメリカの対案では満州国が否定されるとともに、中国問題については日本に全面的な譲歩を求めるものに変わっています。

日米諒解案では日本が手助けしている汪政権と蒋政権との合流にもふれていましたが、対案では無視されています。日中交渉の相手として蒋政権のみが想定されていました。これでは日本としての面子が丸つぶれです。

国家も人も行動する際の考え方に大差はありません。多くの人が世間に対する体裁を気にかけるように、国家もまた国際社会において体裁を取り繕うことに腐心します。そうしなければ多くの国益を失うことに繋がるからです。

また、三国同盟についてもアメリカの言い分を認めるとなると、三国同盟が無効となるも同然でした。いつの時代もどこまでが「自衛のための戦争」であるのか、その線引きは曖昧(あいまい)です。先に手を出しても「自衛のための戦争」と言い張れるからです。

結果的に三国同盟からの離脱を意味していたとしても、国家としての対面を保ちながらごまかす方法は他にもあったはずです。ところがアメリカは直球勝負で三国同盟を有名無実化せよと迫ったことになります。それを呑むとなると、曲がりなりにも大国の一端に名を連ねたと自負する日本の国際的な対面を大きく損なうことになります。

日本としてはアメリカの対案をそのまま受諾するわけにはいきませんでした。

結局のところ、アメリカの対案は日米諒解案に比べて日本のみに一方的に譲歩を迫るところが多く、アメリカの側で譲るところはほとんど見られないものでした。そのことは、アメリカの対日姿勢がより強硬に変化したことを明らかに物語っています。

果たして日本がアメリカの対案を受け取った、わずか9時間後、独ソ開戦の報せが日本にもたらされました。

アメリカの情報筋は独ソ開戦のタイミングを日本よりも正確につかんでいました。アメリカが満を持して、あえて独ソ開戦の直前を狙って対案を日本に示したのかどうかは不明ですが、日本に対する心理的な圧迫感に着目すれば、まさに抜群のタイミングといえます。

日本政府や軍部にとって、アメリカが強硬な姿勢に変化した背景に独ソ開戦があったことは自明でした。

しかし、このときの日本にとって優先すべきは日米交渉ではなく、独ソ開戦に伴う対応を決めることでした。日本は連日独ソ戦への対応に追われ、日米交渉についてはしばらく棚上げとされます。

6月21日の米国対案が連絡懇談会において漸(ようや)く審議されたのは、7月10日のことでした。

● 開戦まであと151日 = 1941年7月10日

その16.第二次日本側修正案をめぐる動き

会議に先立ち近衛首相と東条陸相・及川海相との三者密議が行われ、日米交渉を早期にまとめるための基本的な方針が確認されました。北方問題が解決するまでは南方武力行使を差し控えて日米国交調整に専念すること、アメリカとの国交調整が成ればドイツの不満を招くもやむをえないこと、海外物資を獲得して日中の和平を実現することを第一の急務とすること、多少の譲歩をしても交渉の成立を図ることなどが、決められました。

近衛はこれらを書簡にして松岡に送り、同意するように求めています。しかし、松岡はドイツに寄り添う姿勢を改めようとはしませんでした。

会議の席上で松岡は「元来、外国のお世話になって講和をしたいと考えること自体が不愉快である。俗に言えば、支那事変を持てあまし、自分の理想を忘れ、花より団子という考えを抱くのは大間違いで誠に不快千万である」と言い放ち、アメリカとの交渉打ち切りを提案しました。

これに対して東条陸相・及川海相・杉山参謀総長は交渉打ち切りに強く反対し、松岡に再考を促しています。

政府大本営連絡会議は7月12日にも開かれ、アメリカの対案への回答として示す日本側の第二次修正案の内容が決せられました。

その結果、軍部は3つの条件だけを掲げ、その他はアメリカ案の通りで差し支えないと譲歩の姿勢を見せました。譲ることのできない条件として、1)アメリカが対独戦に参戦した場合は条約上の義務と自衛の見地から態度を決めること、
2)米大統領による日中和平の斡旋の際、和平条件を提示しないこと、
3)太平洋領域において必要やむを得ない場合には武力を行使する場合があること、
以上の3つがあげられました。

その3つはアメリカが特にこだわっている条件であるとわかってはいるものの、日本としても譲れない重大なポイントでした。

修正案がまとまったものの、自分の主張がまったく顧みられなかったことに業を煮やした松岡は、その夜から病気を理由に自宅に引きこもってしまいます。

こうなると政府も軍部も「またか」と、ため息をこぼさずにはいられません。さらに軍部の怒りを買ったのは、病気静養中の松岡がオット独大使を自宅に招き、2回までも長時間にわたる談合を重ねたことでした。

14日になり、ようやく松岡は修正案に目を通して若干の修正を加え、第二次日本側修正案が確定するに至りました。

● 開戦まであと147日 = 1941年7月14日

その17.松岡を追い落としたオーラル・ステートメント

ー ハルのオーラル・ステートメントを巡る動き ー

14日に日本側修正案がまとまったものの、すぐにアメリカに伝達されたわけではありません。松岡は先の米国側対案とともに受け取ったハルの発したオーラル・ステートメントへの返答として、まず自分のオーラル・ステートメントを訓電し、それから二、三日おいてから第二次日本側修正案を送ることを主張したためです。

ハルの発したオーラル・ステートメントとは、松岡を表立って名指ししないまでも、明らかに松岡に対する不満を並べ立てたものであり、暗に松岡を外相から退陣させることを要望するものでした。<注釈-2-7>

<注釈-2-7>
「日本の国策を指導しつつある代表者の中には、独伊に対してあまりにも深くコンミットして動きの取れぬ者があり、あるいは太平洋平和の崇高なる目的を達しようとする日米会談が失散に帰することを願っているのではないかと推定されるごときは遺憾至極である。」と、ハルはオーラル・ステートメントにて述べています。

これに対し、松岡は激しい憤りをぶつけています。松岡は会議においても、これは「一国が他の独立国の内政に干渉する最悪の例であり、日本は二千年の歴史において初めてかかる侮辱を受けた」と叫んでいます。

しかし、あからさまに槍玉に挙げられている松岡以外の面々は、オーラル・ステートメントについてはさほど重視していません。オーラル・ステートメントにこだわることなく、速やかに第二次修正案をアメリカに送り、日米交渉を先に進めるべきとの共通見解に落ち着きました。

それでは侮辱を受けたと感じる松岡の腹の虫は治まることなく、修正案より先にオーラル・ステートメントへの抗議のみを送るべきだと主張したのです。

自らの名誉をかけた松岡の主張は、またも退かれました。松岡の私憤に満ちたオーラル・ステートメントだけを送ったのでは交渉の打ち切りを示唆するに等しく、アメリカ側の感情をいたずらに害し、交渉の行方を悪くさせるだけだと周囲はいさめました。

せめて修正案とともに松岡のオーラル・ステートメントを渡すべきだと、松岡以外の全員の意見が一致をみます。ところが松岡は承服せず、アメリカへの挑戦状とも受け取られかねない松岡オーラル・ステートメントのみを訓電したのです。

それを一目したハルは早々に謝罪の意を表しましたが、すでに勝負に勝ったことをハルは確信していました。

ー 松岡外相の罷免 ー

結局のところ、ハルの思惑通りに松岡は外相の座を追われることになります。連絡会議の意向を無視してオーラル・ステートメントのみを先に訓電したことに加え、15日の朝には日本側修正案をアメリカに送る前にドイツに内報していることがわかったためです。

近衛首相の我慢もここまででした。近衛は東条・及川・平沼の三相と謀り、松岡を外相から罷免することを決したのです。もっとも明治憲法下の当時は首相に大臣を罷免する権限は与えられていません。そこで近衛は内閣総辞職を行い、すぐに第三次近衛内閣を新たに組閣しました。

7月18日に行われた組閣では、松岡一人が閣僚から外れ、他の閣僚は第二次とほぼ変わらない顔ぶれでした。

● 開戦まであと143日 = 1941年7月18日

こうして松岡外交は、あっけなく終わりの時を迎えました。退陣に際して松岡は「坊主めが 行き倒れけり 梅雨の旅」と自分自身を嘲笑するような句を残しています。

松岡が外相として為した数々は、日本に極めて深刻な影響を与えました。舵取りが難しかったこの時期の船頭を誰が務めたとしても、後から批判される結果になったかもしれません。

しかし、この時期の外相が松岡でなければ、三国同盟も日ソ中立条約も締結されていなかったことでしょう。

先に紹介した南部仏印進駐にしても、松岡というカンフル剤がなければ、果たして決定されていたかどうか微妙です。

松岡の行動に不審な動きが目立つようになったのは、訪欧した際にヒトラーと会談して以降のことです。ヒトラーには、いわゆる人垂らし的な魅力があったと多くの人物が証言しています。松岡もまた、ヒトラーに魅了された一人であったといえるでしょう。

訪欧から帰国後の松岡はドイツ一辺倒となり、周囲の信用を失っていく結果となりました。

昭和史を語る上で「松岡外交が戦争の引き金を引いた元凶だ!」と批判されることが定番になっています。

その一方で「松岡外交」が実現していれば日米開戦はなかったと、松岡を再評価する声も最近では聞かれます。結果的には悪影響をもたらしたものの、軍部と互角以上に渡り合えた政治家が松岡ただ一人であったことも事実です。

良しにつけ悪しきにつけ松岡が、大言壮語を信条とする魅力的な人物であったことは間違いなさそうです。

ー 渡されなかった修正案 ー

松岡に代わって外相を任されたのは海軍大将の豊田貞次郎です。豊田は非戦派かつ親米派と目されていました。豊田を選んだ理由として近衛は、「日米の衝突は極力避けねばならぬという主張の持ち主」だったからだと述べています。


wikipedia:豊田貞次郎 より引用
【 人物紹介 – 豊田貞次郎(とよだ ていじろう) 】1885(明治18)年 – 1961(昭和36)年
大正・昭和期の海軍軍人・政治家・実業家。最終階級は海軍大将。東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。オックスフォード大学に留学後、第4戦隊参謀・軍務局長・航空本部長などを歴任、第2次近衛内閣にて海軍次官となる。次官室に歴代次官の肖像や名札を陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせるなど自己顕示欲が強かったことで知られる。

わずか3か月前に商工大臣に就任したばかりであったが、第3次近衛内閣にて外相となり、日米交渉に当たった。海軍の先輩であり同郷でもある駐米大使・野村吉三郎との連携がうまくいくことを期待しての登用であったとされる。近衛内閣が倒れたため、在任約6か月で辞職。戦後、A級戦犯容疑として逮捕されたが公職追放のみ実行され、東京裁判では不起訴となった。解除後はブラジルの鉄鋼開発合弁企業・日本ウジミナスの会長に就任。政治家・経営者として一貫して鉄鋼業の振興に務めた。享年76。

アメリカの意向に従ったわけではないものの、結果的にハルのオーラル・ステートメント通りに松岡を外す結果となり、後任には親米派の外相が就きました。

松岡退陣という思いがけない手土産とともに、第二次日本側修正案はようやく野村大使に渡されました。ところが、それがアメリカに提示されることはありませんでした。

その内容が前回の修正案とさほど変わらず新たな要素がなかったこと、及び外相の交代を知ったことで新内閣によって新たな政策が打ち出されることを期待した野村が、独断でアメリカへの提出を保留したためです。

これを知った近衛は激怒し、『近衛手記』にて「政変の意味を理解していない」と野村を非難しています。

ただし、野村が修正案をアメリカに示さなかったのは、アメリカがつかんだある情報についての問い合わせと警告が寄せられたために、その対応に追われるあまり、修正案を伝えるタイミングを逸した面もあります。

アメリカが捕捉した情報とは、日本軍による南部仏印進駐の動きでした。

ここまで日米諒解案から始まった日米交渉について追いかけてきました。交渉の障壁となっていた松岡外相が罷免されたことで、日米交渉は次のステージへと突入することになります。

そのきっかけとなったのが、南部仏印進駐でした。南部仏印進駐はアメリカによる経済制裁を呼び込み、日本を窮地に追い込むことになります。

次回からは南部仏印進駐をめぐる日米交渉の行方について紹介します。

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