日米交渉(3/36)

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部4章 日米交渉(3/36)開戦まであと319日 民間外交から始まった日米交渉

日米開戦までのカウントダウン

日米交渉
[fontsize size=”1″]言葉の威力が最も発揮されるとき 「あの戦争」の背後を貫く中国要因より引用
ハル国務長官と野村大使による日米交渉がスタートした[/fontsize]

4-2.日米諒解案

日米交渉の大枠について、前回まで紹介しました。今回より、日米交渉のたどった経過を具体的に追いかけていきます。まずは日米交渉のスタートラインとなった日米了解案について見ていきます。

その1.民間外交から始まった日米交渉

● 開戦まであと378日

日米交渉は民間外交から幕を開けました。1940(昭和15)年11月25日、ニューヨークにあるカトリックの外国宣教会(メリノール会)からジェームズ・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したのが、その始まりです。

二人の神父の来日目的は表向きは布教のためでしたが、実際は違っていました。彼らを派遣したのは、熱心なカトリック教徒で知られるウォーカー郵政長官とされています。

ウォーカーといえばルーズベルト大統領の側近として有名な人物です。二人の神父の日本派遣については、ウォーカーが事前にルーズベルトの承認を受けていたに違いないと推測されています。国務省を経由することなく外交に側近を使うのは、ルーズベルトの常套手段でした。

ドラウト神父らに課せられたのは、日米間の戦争の危機を食い止めて両国間にわだかまる問題を解決するために、日本の指導者に訴える工作を行うことでした。

ルーズベルト陰謀説では日米交渉の始まりから終わりまで、ルーズベルトが一貫して日本との戦争を画策したように描かれますが、少なくとも独ソ開戦前までのアメリカは、日本との戦争を避けるべく振る舞っていました。

当時のアメリカが目を向けていたのは、あくまで大西洋であって、太平洋ではありません。大西洋を介してドイツと戦い、イギリスを救うことこそがルーズベルト政権にとっての悲願でした。

しかし、いかに軍事大国アメリカといえども、大西洋でドイツ軍を相手に戦いながら同時に太平洋を挟んで日本軍と戦うには、艦艇も飛行機も不十分です。

そこで大西洋第一主義を決めたアメリカは太平洋での戦いを避けるために、日本に対して多少の譲歩をしてもよいと考えていたのです。

アメリカとしての最善は、三国同盟から日本を離脱させることでした。それが適わず日本と戦争になるにしても、太平洋で日本軍を迎え撃つ準備が整うまでは時間を稼ぐ必要がありました。

こうした話し合いの場を日本政府ともつことをアメリカ側は望みましたが、それを大国アメリカから切り出すことはためらわれました。外交原則上、提案を申し込んだ側が足下を見られて劣勢に立たされることは目に見えています。また、中国に同情的で日本を侵略国として憎悪する反日世論への配慮からも、アメリカから日本に対して交渉を持ちかけるわけにはいかなかったのです。

そこでアメリカは、いきなり政府間交渉から始めるのではなく、まずは民間人を使って探りを入れ、日本側の態度を確認してから正式な交渉に入ろうと画策しました。

そのために送り込まれたのが、ウォルシュとドラウト神父だったのです。

その2.井川による協定案作り

ウォルシュとドラウトは米財界の大物の紹介状を持参していました。そこで彼らは井川忠雄産業組合中央金庫理事と会談を重ねるとともに、日本の政財界・軍部・民間の要人と次々と会談を実現し、日米関係改善について訴えました。井川の口利きにより、松岡外相や武藤軍務局長らとの会談にも成功しています。二人の神父が日米交渉の火付け役になったことは間違いありません。

日米交渉
wikipedia:井川忠雄 より引用
【 人物紹介 – 井川忠雄(いかわ ただお) 】1893(明治26)年 – 1947(昭和22)年
明治-昭和期の官僚・政治家。東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。近衛文麿と近しかった。門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。その後、共栄火災海上保険社長に就任。戦後は日本協同党を結成、貴族院議員に勅選されるも、在任中に死去。

二人は翌1941年1月13日に帰国を果たし、ウォーカーの仲介により23日にハル国務長官・ルーズベルト大統領と会見しています。その場で両神父は日本が日米関係改善に積極的である旨の報告を行いました。

● 開戦まであと319日 = 1941年1月23日

そのことはハルにとって思いがけないことであったらしく、二人の報告を素直には信じようとしなかったことが記録されています。

さらに両神父は、ルーズベルトに「日本提案」として覚書を提出しています。しかし、日本政府が彼らに「日本提案」を手渡した事実は認められないため、「日本提案」なるものは単に両神父が井川や松岡、武藤との会談の内容をまとめたものにすぎないと見られています。

ところがルーズベルトらは、この「日本提案」を日本政府による提案と誤解して受け取った節が見受けられます。

会見の結果、両神父の功績は高く評価され、このまま引き続き日本側との接触を続けることが決定されました。

一方、日本側では両神父の滞日中に接触を重ねた井川が渡米して交渉に当たることになりました。井川は近衛首相と個人的に親しかったため渡米に際して近衛の承認を得てはいたものの、外交に関してはなんの権限も与えられていません。

ところが井川は「日米交渉に関するアメリカ政府の意向を打診して報告して欲しい」と頼まれたと公言することで、あたかも首相の密命を帯びた非公式代表のように振る舞いました。井川は自らを臨時外務大臣のようなものだとも称しています。

問題はウォーカーがそれを真に受け、ルーズベルトやハルに対して「交渉権限を与えられている日本政府の代表がワシントンに来ている」と報告していることです。

公式の日米交渉に先立つ民間外交の時点ですでに、アメリカ側は大きな勘違いを犯していたと言えるでしょう。

井川のワシントンでの立場は微妙でした。<注釈-2-1>

<注釈-2-1>
外交権限を持たない民間人が外交の場にしゃしゃり出てくることを日本大使館の職員が快く思うはずもなく、井川は疎んじられました。それを知った米国務省も、井川をうさん臭い目で見ています。

それでも井川は着任間もない野村大使の信任だけは得ていたため、両神父と会談を重ね、国交改善策についての打ち合わせを進めました。その経過については井川から近衛に大使館を通すことなく直接知らされています。

また、アメリカ側も両神父からウォーカーを通じてハルとルーズベルトに打ち合わせの状況が流れています。

こうして非公式の民間人同士の会談の果てに、3月17日、日米諒解案の原形となる「原則的協定案」がまとまりました。

ウォーカーは井川が日本政府の後ろ盾を得ているものと信じ切っていたため、ハルに対して日本政府が井川らの協定案の内容に同意しているように報告しています。

しかし、この時点ではまだ日本政府は協定案自体を認めていません。井川の活動はすべて非公式に過ぎなかったのです。

その3.日米諒解案、誕生のいきさつ

井川らの協定案作りがはじめて公的なものになるのは、陸軍から武藤軍務局長の部下であった軍事課長の岩畔豪雄がアメリカに派遣され、4月から井川らに合流して以降です。
<注釈-2-2>

<注釈-2-2>
岩畔は秘密戦兵器の開発をしていた陸軍登戸研究所や、諜報や防諜などの教育・訓練を行う陸軍中野学校の創設に関わったと言われており、「謀略の岩畔」として知られていた人物です。
日米交渉
wikipedia:岩畔豪雄 より引用
【 人物紹介 – 岩畔豪雄(いわくろ ひでお) 】1897(明治30)年 – 1970(昭和45)年
昭和時代の陸軍軍人・評論家。最終階級は陸軍少将。関東軍参謀・対満事務局事務官として新国家満州国の組織の整備、及び産業の育成など経済事務の骨組み作りを担当。「諜報、謀略の科学化」という意見書を参謀本部に提出したことにより、陸軍として初めて秘密戦業務推進が命ぜられた。以後、謀略の岩畔と呼ばれ、日本の謀略・諜報活動の中枢で活動した。秘密裡に進められた汪兆銘樹立計画に関与。日本初のスパイ学校、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)を設立。

東條英機が示達した訓令「戦陣訓」の原案を書く。陸軍省軍事課長となり、1941年に渡米し、陸軍側要員として野村大使を助け日米交渉に当たった。日米諒解案の策定を作成。後に登戸研究所を設立、殺人光線などの電波兵器、毒薬・生物化学兵器の研究・開発、リモコン戦車・風船爆弾など各種爆弾の開発を指揮した。中国の経済攪乱を目的とする偽札製造・投入を指揮した。これは世界大戦中における最大規模の経済謀略であったとされる。戦時中は岩畔機関を立ち上げ、インド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に関与。藤原機関とともにインド独立に貢献した。

戦後は、開戦前の日米交渉に加わったことから親米避戦派と目され、日本陸軍と米軍の連絡係として活動。自衛隊が創設される時、吉田茂から参加を促されたが、「敗軍の将、兵を語らず」と固辞した。沖縄返還にも功があるとされる。京都産業大学の開学に関わり、財界人のアドバイザー・自民党右派のブレーンとして活躍。74歳没。

協定案作成の中心は井川から岩畔へとバトンタッチされ、井川は通訳を引き受けることになりました。アメリカ側はウォーカー・ウォルシュ・ドラウトの3人、日本側は岩畔と井川の2人の計5人によるグループが結成され、協定案の作成が急がれました。

この過程でアメリカ側は驚くべき提案をしたと『岩畔豪雄談話速記録』には、次のように記されています。
「もし日本が三国同盟から抜けるならば、日ソ戦争が起こったときに、アメリカは日本を援助するという一文を入れてもよい」

このことから、当時のアメリカが相当の覚悟を決めて日本に対して譲歩するつもりでいたことがうかがえます。

5人による話し合いの結果、日米諒解案の草稿がまとまったのは4月5日のことでした。

● 開戦まであと247日 = 1941年4月5日

草稿は4月9日にハルのもとに届けられました。それを見たハルは「我々は非常に失望した。それは我々が考えていたよりもはるかに与(くみ)しにくいもの」だったと綴っています。

日米諒解案の草稿は、ハルにとって受け入れがたいものだったようです。この時点でハルが草稿を採用する気などなかったことは明らかです。

ところがハルは突然翻意し、4月16日、草稿にわずかな修正を施したのみで日米諒解案の最終案として認めるに至ります。

● 開戦まであと236日 = 1941年4月16日

いったい、なにがハルの気持ちを一変させたのでしょうか?

ハルの思いがけない譲歩を引き出したのは、4月13日に日ソ中立条約が締結されたからだと考えられています。

昨日まで敵同士であった日ソが手を組んだことは、アメリカに大きな衝撃を与えました。ソ連の脅威から解放されるとなると、日本軍による南下が現実的なリスクとして身に迫ってくるからです。

実際、アメリカは大西洋第一主義に基づき太平洋艦隊を大西洋に移動させる決定を下していましたが、日ソ中立条約締結後の4月15日には計画を急きょ取りやめにしています。

アメリカにとって太平洋艦隊の大西洋への移動は急務でした。イギリスを助けるために武器貸与法が制定されましたが、実際にイギリスに武器を渡すことができずに困っていたからです。武器を積んだ英国船が次々にドイツの潜水艦によって沈められていたためです。

武器を無事にイギリスに送り届けるためには、米国海軍の船団護送が必要とされました。ルーズベルト政権はドイツと戦争になってでも英国船をドイツ潜水艦から守る決意を固めていたのです。

英国船を護送する米艦隊に業を煮やしてドイツが攻撃を仕掛けてくれば、戦争に反対する世論にかかわらず、対独戦へのアメリカの参戦が自動的に決まります。ルーズベルト政権が意図的にそうした状況を狙っていたことは、先に紹介した通りです。

そのためにも太平洋艦隊を1日も早く大西洋へと移動させたいところですが、その際気がかりなのは、三国同盟に基づく日本軍の参戦でした。まして日ソ中立条約によってソ連のくびきを外れたとなれば、北方の安全を確保した日本軍が南進に踏み切る恐れが十分にありました。

日本の南進によりアメリカの植民地であるフィリピンを失う可能性が高く、英領マレーや蘭印を奪われることは、ほぼ確実とみられていました。対独戦に苦しんでいるイギリスが重要物資の補給地であるアジアの植民地を失えば、もはや戦争の継続さえ危うくなります。

即ち、日本の南進は、アメリカが救いたかったイギリスの滅亡を決定付ける最大のリスクだったのです。

だからこそアメリカは大国としての対面をかなぐり捨て、大幅に譲歩してでも日本の南方進出を抑える必要に迫られていました。

アメリカの国益にとっては好ましくない日米諒解案をハルが認めたのは、こうした背景があったからこそです。

ただし、ハルにとって日米諒解案は日本案でもアメリカ案でもなく、ここから日米交渉をスタートさせるための叩き台に過ぎないものでした。日米諒解案には日米双方の言い分がそれぞれに盛られていました。この案を叩き台として、これから双方の不満とする部分について交渉を重ねることで修正していくことを目指す意向でいたのです。

ハルー野村会談を経て、ハルは日米諒解案を日米交渉の正式ルートに乗せることを容認しました。

これにより民間外交の手を離れ、日米の政府による公式な日米交渉が遂に始まったのです。

その4.日本を喜ばせた日米諒解案

● 開戦まであと234日 = 1941年4月18日

ハル国務長官の了解を得て、4月18日に日米諒解案は野村大使を通じて正式に日本政府に渡されました。その内容を確認した日本側は、歓喜に包まれました。日米諒解案はアメリカが従来までの基本的な外交姿勢を改め、日本に対して大幅に譲歩する内容だったからです。

その内容は以下の通りです。まず日米間の最大の障害となっていた三国同盟問題については、ドイツがアメリカから積極的に攻撃された場合にのみ、日本に三国同盟に基づく参戦義務が生じるとされました。<注釈-2-3>

<注釈-2-3>
アメリカが本当に狙ったのは日本が三国同盟から脱退することでしたが、時勢に鑑みればさすがに無理があるとわかっています。そこでアメリカとしては、三国同盟の無力化を計りました。

しかし、日本としてはこの条項を呑むことは、さほど問題のないことでした。なぜなら三国同盟はもともと、同盟国が第三国から一方的に攻撃を受けた場合には参戦の義務が生じるものの、同盟国側から第三国に攻撃を仕掛けた場合には参戦の義務がない定めになっていたからです。

したがって三国同盟についてはアメリカが釘を刺すまでもなく、ドイツがアメリカから積極的に攻撃される以外は日本に参戦義務が生じないだけに、この条項については日本側になんの不満もありません。

次に中国からの撤兵問題については「日本は撤兵に同意する」ことが記されていました。しかし、諒解案を読む限り「日中間の別途の協定による駐兵は認められる」と日本側は解釈しました。

そうであれば、もともと中国からの撤兵は陸軍でも期限付きで決定されていただけに特段、問題はありません。日中間の協定がある華北と内蒙に駐兵ができれば、満州の安全を確保し、防共の備えにすることができます。華北と内蒙の資源も確保できます。

さらに海南島も台湾の防衛のために海軍が駐兵を希望していました。この問題については井川の手記によると、ハルから「防共駐兵」の名目では華北・内蒙に限られてしまうから、海南島を含めたいのであれば「治安駐兵」にした方がよいとさえ提案されたと記しています。

このことから「日中間の協定に基づく駐兵に関しては認めてもよい」とする構えを、当時のアメリカが見せていたことがわかります。

問題は中国からの撤兵に満州国が含まれているかどうかです。この問題は後のハル・ノートの解釈を巡り再燃することになりますが、日米諒解案が出された時点のアメリカは、満州国を中国からの撤兵に含めていなかったと考えられています。

野村大使はこの点を確認するために、ハルが「平和的手段による変更を除き太平洋の現状不変更」を原則として掲げていたことに関連して満州国についてハルに質問しています。

その際、ハルは「この条項は満州国には影響を及ぼさず、将来の問題について適用するつもりである」と答えています。

4月から交渉に加わった岩畔も、アメリカの満州国承認についてはほとんど問題がなかったと記しています。

アメリカはこれまで満州国の存在を認めてきませんでした。そのため日本は国際社会からの孤立を余儀なくされ、国連からも脱退することになりました。しかし、ようやくアメリカが満州国を承認する構えを見せたことは、日本側にとっての大きな収穫でした。東条陸相も満面の笑みをたたえていたと伝えられています。

結局、中国問題については中国の独立を認め、日中間の協定に基づく日本軍の撤兵、蒋介石政権と汪政権の合流、満州国の承認などを条件として、ルーズベルトが蒋政権に対して和平を勧告するとされました。

日米交渉
wikipedia:蒋介石 より引用
【 人物紹介 – 蒋介石(しょう かいせき) 】1887年 – 1975年
中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。
日米交渉
wikipedia:汪兆銘 より引用
【 人物紹介 – 汪兆銘(おう ちょうめい) 】1883年 – 1944年
中国の政治家。清末日本の法政大学に留学中、中国同盟会に加入。清朝要人の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが、辛亥革命の成功により釈放。広東政府要人として孫文を助け、その死後は中国国民党左派の指導者として蒋介石と対立した。まもなく共産党と絶縁し武漢政府主席となるが、蒋介石との蒋・汪合作政権をつくり、行政院長・党副総裁を歴任。日中戦争が始まると和平救国を唱えて、日本との提携を主張。

重慶を脱出し、反共と対日和平を掲げて南京国民政府を樹立するも、事実上日本軍の傀儡政権で終わった。名古屋にて客死のあと遺体は南京郊外の梅花山に埋葬されたが、国民党によって終戦後、墓を破壊された。中国では「日本に寝返った最悪の裏切り者」と評価されているが、近年では汪を再評価する研究も発表されている。

日本としての対面を保ちつつ、泥沼と化した日中戦争を終わらせることができるのであれば、陸海軍ともに不満はありません。欧州大戦の見通しが不透明ななか、日本の軍部としては日中戦争を1日でも早く終結させ、自由に行動できる状態を得ることが急がれたのです。

満州国が承認され、華北・内蒙・海南島への駐兵が認められ、蒋政権と汪政権が合流してくれるのであれば、日本として不満はありません。

さらに、日本が武力による南進を行わないことを保証するとともに、アメリカは日本の必要資源入手に協力することも、日米諒解案には盛り込まれていました。「新日米通商条約」が締結され、両国の通商関係が正常化されるのであれば、もとより南進の必要性さえなくなります。

極めつけは日米諒解案の最後に、日米首脳会談をホノルルにおいて開催することが記されていたことです。両首脳が会談することで、日米の和解が一気に進むことが期待されました。

日米諒解案の内容は、いずれも日本にとって信じられないような好条件でした。近衛首相をはじめ、政府や軍部の指導者たちが大いに喜んだことも無理のないことといえるでしょう。

その5.日本側の大きな勘違い

しかし、日本側は大きな誤解をしていました。近衛らは日米諒解案を米国政府案であると勘違いしていたのです。

このような勘違いが生まれたのは、日米諒解案を日本政府に渡す際の野村大使の電文に問題があったとされています。

ハルは野村に対して、はっきりと日米諒解案の位置づけについて説明していました。それは「日米の民間人によって作成された諒解案を基礎にして、これから交渉を始めてよいかどうか、日本政府の承諾を得てほしい」というものでした。

日米諒解案についてはアメリカとしてはまったく承認できない条項もあれば、そのまま受け入れられる箇所もある、修正したい箇所もあれば、新たに提案したいこともあると伝えた上で、ハルは野村に諒解案を渡していたのです。

ところが、こうしたハルの真意は野村の電文からは伝わってきません。ただし、電文をよく読めば「米国政府ノ修正ヲ経タル後、日本国政府ノ決定ニ俟(ま)ツベキモノ」と記されているだけに、これが直ちに米国政府案でないことがわかります。

それでも近衛をはじめ、日米諒解案を目にした全員がこれを米国政府案と勘違いしたからには、現代から振り返ったのではわからない何かしらの裏事情があったのかもしれません。

不思議なことは、この勘違いはその後も正されることなく、開戦時の東郷外相にまで引き継がれていることです。

野村大使や岩畔はなぜ、これほど重要な勘違いを正そうとしなかったのか、あまりにも不自然です。

岩畔の残した手記によれば、この諒解案は両国間の懸案事項について、単に日米の見解を大まかに統一しておこうとするものだったと記しています。その目的は最後の項に記載されている日米首脳会談の下準備のためだったとされています。

日米諒解案についての位置づけが、日本とアメリカでは大きく異なっていました。このことは後々まで、両国に禍根を残しました。

日本は日米諒解案を米国政府案と受け止めました。外交に限らず交渉の場において、初めに相手が出してきた条件をそのまま受諾することは少ないと言えるでしょう。少しでも自分に有利になるように、更なる要求を付け加えるのは、交渉の場においてごく普通のことです。

日本もそうしました。交渉の初期に出された日米諒解案よりも、より有利な条件を獲得しようと交渉に臨みました。

しかし、アメリカは端から米国政府案を渡したつもりなどありません。あくまで交渉の叩き台を提供したに過ぎません。

そのため交渉が始まってみると、交渉の叩き台として合意したはずの日米諒解案よりも、さらに過重な要求を日本がなぜしてくるのか理解できません。アメリカから見れば日本の態度は不誠実と映りました。

一方、アメリカも交渉が始まると諒解案に拘束されることなく、厳しい要求を日本に突きつけました。アメリカとしては、諒解案にはアメリカとして承認できない項目もあると初めから断っていたのだから、当然のことです。まさか、そのことが日本政府に伝わっていないとは思ってもいません。

ところが日本は日米諒解案を米国政府案と信じ切っていたため、自ら案を提示しておきながら、いざ交渉が始まってみると手のひらを返したように厳しい条件を突きつけてくるアメリカの態度が理解できません。

こうして日米間は交渉を重ねるほどに、双方に不信感が深まることになりました。

日米交渉は始まりからして、両国の大きな誤解を起点としていたといえるでしょう。はじめに政府間交渉ではなく民間外交によって諒解案ができていたため、日米共に意思の疎通ができていなかったのです。

次回は、日米諒解案を受け取った後の日本側の動きについて追いかけてみます。独ソ訪問から帰国したばかりの松岡外相の思惑が、日米交渉の障壁として立ちふさがることになります。

(4/36)日米諒解案だけを日本政府に送った野村大使の独断。大混乱へ

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